【3話】教室の隅のヒロインと、ベンチの王子
二日目の朝、教室に足を踏み入れた瞬間、私はまたひとつ違和感を拾ってしまった。
セレナが、教室の隅の席で、静かに本を読んでいる。
(……あれ?)
ゲームの中のセレナは、いつも誰かに囲まれていた。
休み時間になれば自然と人が集まり、悩み相談を持ちかけられ、誰かと一緒に笑っている──そういう絵が、画面の向こうではお約束だった。
クラスメイトに頼られ、先生にも気に入られ、いつも教室の中心にいる。
それが、私の知っているセレナだった。
けれど目の前のセレナは、誰にも話しかけられることなく、ひとりで静かにページをめくっている。
性格そのものは、昨晩話した印象と変わらない。
優しく、控えめで、誰かを傷つけることを嫌う、あの聖人らしさはそのままだ。
ただ、その優しさを向ける相手が、今はまだ誰もいない。
(おかしいな……これじゃ、聖人なのに、誰もそれを知らない状態じゃ……)
周りの生徒たちは、セレナの存在に気づいていないわけではないようだった。
ただ、特に話しかけるきっかけがないというだけで、教室の風景の一部として馴染んでいる。
それが、なんだか落ち着かない光景に見えた。
声をかけようかと一瞬迷ったけれど、まずは別の懸念のほうが頭を占めていた。
先にどうしても、ユリウスのことを確かめたかった。
昼休み、私は中庭に向かった。
案の定、ユリウスは昨日と同じベンチに、同じように縮こまって座っていた。
手元には本があるが、ページはほとんど進んでいないように見える。
「殿下、こんにちは」
なるべく自然な声で話しかける。
ユリウスはびくっと肩を震わせ、それから慌てて立ち上がろうとした。
「あ、いや、その……かしこまらなくていい。み、見ての通り、ただの……」
「いえ、お気になさらず。よろしければ、お隣失礼します」
返事を待たずに腰を下ろす。
ユリウスは明らかに動揺した様子で、視線をあちこちに泳がせていた。
(ゲームだと、ここで取り巻きが「殿下に近づくとは何様だ」って絡んでくるはずなんだけど……誰もいないな)
確かに周囲を見回しても、近づいてくる人影はない。
代わりに、ユリウス自身が居心地悪そうに身を縮めている。
「殿下は……あまり、人と一緒にいるのが得意ではないのですか?」
直球で聞いてみる。
ユリウスは少し驚いた顔をして、それからぽつりと答えた。
「……得意、ではない、かな。皆、私が王族だからという理由で気を遣ってくる。それが、どうにも……息苦しくて」
(あ……これは、ただの照れとかじゃなくて、本当に苦手なんだ)
予想していた「俺様で堂々とした王子」とは、まったく違う反応だった。
それでも、言葉の中には誠実さが滲んでいる。
威厳がないことを恥じているような、申し訳なさそうな雰囫気すらあった。
「では、私とお話しするのも、息苦しいですか?」
「……いや。それは、別に……」
ユリウスは少し言葉を濁し、それから小さく続けた。
「君は、別に……何かを期待しているわけではないみたいだから」
(期待……? あ、もしかして、いつも「王子らしさ」を求められることに疲れてるのかも)
「私は、殿下だからといって、特別構えたりしませんよ。よければ、これからも普通にお話ししませんか」
ユリウスは少し驚いた顔をして、それからわずかに表情を緩めた。
「……いいのか? 私と」
「もちろんです。お友達になりましょう」
(まずは、警戒を解いてもらうところから始めないと。王子らしさを取り戻すには、私が信頼できる相手だって分かってもらわなきゃ)
ユリウスは少し戸惑った様子だったが、小さく頷いてくれた。
「……ありがとう。こんな風に話しかけてくれたのは、久しぶりな気がする」
その一言が、思った以上に重く響いた。
久しぶり、というのがどれくらいの期間を指すのか分からないけれど、なんとなく察してしまう。
(よし、第一歩……!)
放課後、私は教室に戻り、まだひとりで本を読んでいるセレナのもとへ向かった。
「セレナさん、せっかく同室ですし、今日はご一緒にお茶でもいかがですか?」
セレナは少し驚いた様子で顔を上げ、それからほんのり微笑んだ。
「もちろんです。……あの、嬉しいです。誰かに、そう言ってもらえるの」
二人で学園内のカフェに移動し、温かい飲み物を前に、たわいない話をしながら少しずつ会話を深めていく。
窓際の席からは、夕方に染まりかけた校庭が見えた。
「セレナさんって、入学する前は、どこかで誰かと一緒に過ごしてたりしましたか? 幼馴染とか、よく一緒にいた方とか」
「いえ……特に親しい方はいなかったです。家でも、ひとりで過ごすことが多くて」
(やっぱり……幼馴染がいた様子はない。じゃあカイルとの関係は、完全に存在しなかったってこと?)
「それじゃ、執事の方とかも……」
「うちには、執事はいませんよ。父が、そういうのは堅苦しいから要らないと言っていて」
(執事の存在自体、ラファイエット家になかった……エイデンが執事じゃないのは、最初からそういう設定だったってこと……?)
少しずつ集まる情報が、頭の中でうまく形にならない。
それでも、セレナが何も気にしていない様子で笑っているのを見ると、こちらまでなんだか安心してしまう。
「セレナさんは、寂しいとか思ったことはないんですか? いつもひとりで……」
「うーん……そういうものなのかな、と思っていたので、特には。でも──」
セレナは少し考え込むように視線を落とし、それからゆっくり続けた。
「モブリーヌさんとお話しできて、すごく楽しいです。こういう時間、今まであまりなかったので」
その言葉に、胸の奥がぎゅっと締まる。
(誰も、誘ってなかったんだ……この子のこと。私が来るまで、ずっと)
「私もです。これからも、よろしくお願いします」
セレナは嬉しそうに頷き、それからカップに口をつけた。
窓の外では、日が少しずつ傾いていく。
(まずは、王子と仲良くなる。セレナのことも、もう少し知っていく。ひとつずつ、確かめながら)
カフェの窓の外、夕暮れの学園を眺めながら、私はこれからの方針を静かに固めていた。
何が正解なのか、まだ分からない。
けれど、少しずつ近づいていくことしか、今の自分にはできそうになかった。




