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【第3章】逃げ場なき美食と特上の生贄

暗闇の中、五感は鋭利な刃物となって心を容赦なく削り取っていく。

ボーイは恭しく一礼すると、まずは駿の前に、静かな所作で白磁のスープ皿を置いた。ふわりと鼻腔をくすぐる芳醇な香りに、駿の喉が自然と鳴る。


……だが、ボーイはそのまま離れようとはせず、皿を置いた姿勢のまま駿の耳元へわずかに顔を寄せた。

「失礼ながら、お客様。お車のライトが点いたままのようでした。この山道でバッテリーを上げられては大変かと思い、お声がけいたしました」

「えっ! マジっすか!? ……やべぇ」


駿の顔色が瞬時に変わった。この山奥で足を失うのは致命的だ。焦燥に駆られた様子で立ち上がる駿に、ボーイはすかさず滑らかな声で続けた。

「勝手口から回るのが駐車場への近道でございます。スタッフにご案内させましょう。……こちらへ」

ボーイがスッと片手を上げると、近くにいたウェイターが音もなく歩み寄り、一礼した。

「こちらでございます。お客様」


「凪、先に食ってて。すぐ戻ってくるから!」

駿は一度だけ凪の方を振り返ると、ウェイターに先導されて足早に席を立った。ボーイは深く、優雅な一礼でその背中を見送る。


そして―――

ボーイはゆっくりと凪のほうへ向き直った。


その口元には仮面のような笑みが張り付いたままだが、凪を見据える視線だけは先ほどまでの丁寧な接客とは裏腹に、まるで「皿の上の食材の鮮度」を検分するかのような鋭い光を宿していた。

「……お客様はどうぞ、こちらの温かなスープをお楽しみください」


駿の姿が重厚な扉の向こうへ消えた瞬間、ホールの喧騒が、まるでスイッチを切ったかのように凍りついた。

食器が触れ合う音も、客たちの話し声も、すべてが不自然に消え去る。凪は自分の心臓の音だけが急に大きく、速くなっていくのを感じた。


「……駿?」


たまらず相棒の名を呼んで振り向こうとしたが、凪の体は凍りついたように動けなかった。

さっきまで「鑑定するような視線」を向けていた周囲の客たちが一斉に食事を止め、無表情な顔を自分の方へ向けていたからだ。


(えっ、なに、なんでみんなこっち見てるんだよ……怖い、怖い怖い怖い!)


頭の中で警報がガンガン鳴り響く。

これまでの「場違いな高級感」が一瞬で「逃げ場のない檻」に変わったような感覚。


(やばいやばいやばい! ここ、絶対におかしい!早く駿を追いかけないと――!)


凪は半ばパニックになりながら、弾かれたように椅子から腰を浮かせた。一刻も早く、駿が消えたあの扉へ駆け寄ろうと、逃げる気満々で一歩を踏み出そうとした。


まさにその瞬間だった。


背後の影から、蛇のような銀の鎖が踊り出た。


「え……っ?」


逃げようと浮かせた体は、上から強烈な力で押さえつけられるようにして元の椅子へと叩きつけられる。

銀の鎖はシュルシュルと不気味な音を立て、座ったままの凪を椅子ごと幾重にも縛り上げ、その場に縫い止めた。


「な、なんだよ、これ!うそだろ……っ」


あまりの出来事に声が震える。

先ほどまで凪が「可愛い」と言っていた、魚の形をした銀のナイフ。それが卓上でカタリと震え、歪んだ凪の顔を冷たく映し出していた。


そして、さらに背後から伸びた手が凪の頭を強引に固定した。

「やめろ!何なんだよばかやろう! 離せッ!」

怒鳴り声を上げた次の瞬間、視界が真っ白な絹の布で覆われ、同時に口元も同じ布で幾重にも巻かれた。

布は唾液を吸い、驚くほど重く、凪の声をその内側に封じ込めた。


―――暗闇。そして、耳が痛くなるほどの静寂。

聞こえるのは自分の激しい鼓動と、恐怖でせり上がってくる生唾を無理やり飲み込む「ゴクリ」という微かな音だけだった。


何重にも巻き付けられた絹の布は、無慈悲なほどに光を遮断し、凪の世界を完全な暗闇に塗りつぶしている。さらには口まで硬く塞がれ、漏れ出るのは鼻を鳴らすような呻きだけだ。


だが、その静寂はすぐに異様な音の洪水に切り裂かれた。


カツン、コツン……。硬い靴音が一つ、また一つと増え、凪を包囲するようにゆっくりと近づいてくる。さらには、陶器に銀のスプーンが当たるカチャカチャという乾いた音や、肉を切り分ける嫌に生々しいナイフの音が、すぐ耳元で鳴り響き始めた。


(なに!?……なんだよ……)


誰かがすぐ傍で、凪を「見ながら」食事をしている。その気配が皮膚を刺すような悪寒となって伝わってくる。


その時、耳元に湿った吐息が忍び寄った。

「……フフッ」

低く、愉悦に満ちた含み笑い。同時に、冷たい指先が凪の髪をまるで極上の素材を慈しむように優しく撫で上げた。


「ぅぁ――っ!!」


凪は絶叫を布の裏側に押し込め、縛られた椅子ごとガタガタと暴れた。必死に頭をぶんぶんと振り、不気味な指先を振り払おうと抗う。だが、執拗な指先は逃がしてはくれない。今度は凪のうなじを、温度を確かめるようにゆっくりと這い回った。


ボーイは満足げに細い目をさらに細めると、ホール全体に響き渡るような朗々とした声で告げた。

「さあ、皆様。お待たせいたしました。始めましょう――今夜の『メインディッシュ』は、お気に召しましたでしょうか?」


瞬間、周囲からドッと沸き立つような、飢えた獣たちの拍手が鳴り響いた。

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