【第4章】銀のハサミと時の裁断
剥き出しの狂気が拍手喝采に包まれる時、生贄の忍耐は限界を迎えようとしていた。
カチャ、カチャ……。
暗闇に響くのは、磨き上げられた銀器が触れ合う冷たい音。そして、熱を孕んだ大勢の「視線」の重圧。
目隠しの布のせいで、凪は自分に向けられるその視線の正体を見ることができない。だが、肌を撫でる空気の質感でわかる。彼らは「飢えて」いるのだ。
厚い猿ぐつわに声を封じられた凪は、鼻に抜ける押し殺した悲鳴を上げながら、拘束を逃れようと懸命に身を悶えさせた。
必死に頭を振り、椅子の脚を床に軋ませて抗う凪の耳元で、ボーイの低く滑らかな声が響いた。
「さあ、皆様、どうぞよくご覧ください。……最近は皆様にご満足いただけるような『商品』をご提供できず、オーナー共々、言葉に尽くせぬほど申し訳なく思っておりました。しかし――」
ボーイの冷たい指先が、凪の額からこめかみをなぞり、ゆっくりと震える顎を掬い上げた。まるで、名工が焼き上げた極薄の白磁を、透かして鑑定するような――触れれば砕けてしまいそうな儚い陶器を慈しむ、病的な手つき。
「――今夜は、これまで供してきた中でも、間違いなく『特上』の逸品でございます。この肌の透明感、恐怖に染まった瞳の輝き……そして、この若々しく瑞々しい命の鼓動。これほどまでに美しい素材に巡り会えるのは、奇跡としか言いようがございません」
凪は声を殺して絶叫し、首を大きく振ってその指を拒絶した。だがボーイは凪の首筋に浮き出た血管を「名器に刻まれた極細の紋様」でもなぞるように、さらに髪を優しく梳き上げるようにしてそのうなじへと指を滑り込ませる。
周囲の暗闇から、客たちの恍惚とした溜息と、ごくりと喉を鳴らす音が漏れ聞こえてくる。
「……ああっ……」
「なんと、素晴らしい……」
それはもはや人間の食事の風景ではなく、異教の神に生贄を捧げる祝祭のようだった。
ボーイは満足げに、そして残酷なほどの優雅さで、最後の宣告を口にする。
「さあ、皆様。お待たせいたしました。始めましょう――今夜のメインディッシュ、皆様のお気に召しましたでしょうか?」
―――ボーイの艶やかな声と共に、耳元で「シャキーン、シャキーン」と、冷たく澄んだ金属音が響いた。
ボーイの手元で光るのは、月明かりを凝縮したような白銀のハサミ。装飾は極限まで削ぎ落とされ、ただ獲物を「断つ」ためだけに研ぎ澄まされたその刃は、凪の喉元に冷気が触れるだけで肌に鳥肌を立たせる。それは美容師の道具というより、外科医の執刀、あるいは死神の鎌に近い、禍々しい美しさを放っていた。
銀のハサミが、凪の側頭部で空気を切り裂く。
(……え? なに? なにが起きてる……!?)
厳重に巻かれた絹の布のせいで視界は完全な漆黒だ。だが、耳のすぐそばで空気を切り裂く刃物の音がする。
「ふふ……。ああ、そう怖がらないでください。これは、あなたをより輝かせるための『仕上げ』なのですから」
ボーイの含み笑いが耳元に届き、再び「シャキーン!」と鋭い音が鳴る。
痛みはない。どこも切られた感触すらしない。なのに、ハサミの刃が重なるたびに、凪の身体の芯から「温かな何か」が根こそぎ削り取られていく感覚に襲われた。
思考が真っ白に染まる。
自分の中で何かが決定的に失われている。理屈ではなく本能が「やばい」と警鐘を鳴らしているのに、叫びたくても声は布に阻まれ、ただ、引き攣った喉で生唾を飲み込むことしかできない。
「……ああ……」
「なんと……なんと美しい……。若さが、滴っている……」
暗闇の向こうから、客たちの熱を帯びた、そして粘りつくような感嘆の溜息が包囲網のように凪を圧迫した。姿は見えない。だが、大勢の「飢えた人間」が、自分の何かを貪るように見つめていることだけは、肌を刺すような悪寒で理解できた。
(……嘘だろ……。オレの輪郭が奪われてる……!?)
ハサミが音を立てるたび、指先に微かな重みが加わり、肌のハリが急激に失われていくような、恐ろしい違和感だけが全身を駆け巡る。
だが、理不尽な恐怖に心臓をバクバクさせながらも、凪の脳裏には呑気な相棒の顔が浮かんでいた。
(――駿! なにやってんだよ、あいつは!!)
こんな時まで自分を放置している相棒への猛烈な苛立ちが、パニック寸前の頭をかろうじて繋ぎ止める。
(いい加減にしろよ……! 来るなら早く来いよ、馬鹿野郎!!)
叫びたくても声は布に阻まれ、ただ、引き攣った喉で生唾を飲み込むことしかできない。
そんな凪の焦燥と恐怖をあざ笑うかのように、ホールの拍手はさらに激しく容赦なく飲み込んでいった。




