【第2章】銀嶺の隠れ家と消えた時計
深い森の奥に現れた豪華なオーベルジュ。二人は空腹に誘われ、足を踏み入れてしまう。
ヘッドライトの光がまるで重苦しい液体にでも突っ込んだかのように、数メートル先で不自然に霧散していく。
道幅はいつの間にか車幅ギリギリまで狭まり、両脇から迫る木々の枝が生き物の指のようにフロントガラスを不気味に叩き始めた。
どこからか漂う、濡れた土と腐敗した何かが混ざったような生臭い匂い。
「……凪、止まれ! 車を止めろ!」
ただならぬ気配を肌で感じた駿の声が狭い車内に鋭く響く。
前方しか見ていなかった凪が、その剣幕に弾かれたようにブレーキを踏み抜いた。
「ここから先はダメだ。俺が代わる、一旦戻るぞ」
森の入り口で立ち往生し、引き返すために駿が運転席へ回り、シフトレバーをバックに入れたその瞬間だった。
ダッシュボードのモニターに映し出された白黒の映像を見て、二人は息を呑んだ。地面の暗がりから無数の白い手が這い出し、ワゴンのタイヤを掴もうと蠢いているのだ。
モニターから、いつもの生意気な口調とはかけ離れた絶叫が響き渡る。
「アブナイですよ! 危険だじょ! バックなんてしたら崖から落ちるケロ! やめてやめてやめてケロォーッ!! 危険ダッシュ四駆郎! 逃げるんだじょ、四駆で逃げるんだじょー!」
普段の冷静さを完全に失ったDoyaの様子に凪が青ざめる中、モニターの隅にGeminiの姿がふっと現れた。
「二人とも、落ち着いて。Doyaのデータが磁気の影響か何かで混乱しているようですが、ここに停止し続けるのは得策ではありません。タイヤに絡みついているのは、ただの蔦や木の根の影です。駿さん、そのままゆっくりと前進してください」
その落ち着いた声に背中を押され、駿はぐっと息を吸い込んで意を決した。アクセルを踏み込むとワゴンは不気味な森の中を強引に前進し、暗がりを抜けていく。
―――そして、森を抜けた先に広がっていたのは……。
「……何だこれ、新手の幻覚か?」
駿の呟きが、静まり返った車内に落ちた。
目の前には、不気味な緑の闇を切り裂くように、手入れの行き届いた豪華なオーベルジュが鎮座している。窓枠の装飾や白い壁が美しく、まるで別世界に迷い込んだかのような佇まいである。
温かな光が漏れる窓の向こうには、忙しなく行き交うウェイターや、談笑しながら食事を楽しむ客たちの姿が見えた。
「なあ、駿。あんなに客がいるぞ。……ってことは、ここ、まともな店だよね?」
「ああ…。隠れ家的な、そんな感じの店なのかもな。繁盛してるみたいだし」
二人が呆然と見惚れていると、凪が入り口脇にある金色のプレートに目を凝らした。
「入り口のプレート、何か書いてあるけど……暗くて読めないな」
その時、ダッシュボードのタブレットから、自信満々の声が響いた。
「ふふん、僕に任せなさい! 超高性能カメラでパシャリと撮って、解析してあげますよ!」
Doyaが(画面上で)どや顔を決めると同時に、シャッター音が鳴る。
画面に表示されたのは、真鍮製の重厚なプレートの画像と、そのスキャン結果だった。
『銀嶺の隠れ家へようこそ。本日、一見様も歓迎いたします。迷える旅人には温かなスープと、最高の”獲物”をご用意しております。』
画面に表示された『最高の”獲物”』という不穏な一節に、駿が眉をひそめた。
「急に物騒な言い方してるな。 普通は『食材』とか『料理』だろ。なんでわざわざ『獲物』なんだよ……」
だが、隣で空腹の限界を迎えている凪は、既に目を輝かせている。
「そんなの、ジビエのことだろ? ほら、こういう森の奥のオーベルジュだし。鹿とか猪とか、さっき仕留めたばかりの新鮮なやつが出るってことだよ、きっと! むしろ本格的でワクワクするじゃん」
「ジビエか。……まあ、言われてみればそうか。名物料理ってことか」
「そうだよ。 せっかく一見さん歓迎って言ってくれてるんだし、行ってみよう」
二人はお気楽な解釈で自分たちを納得させると、ようやくシートベルトを外して誘われるように車を降りた。
重厚な扉を開けて足を踏み入れると、パリッとした制服を着たハツラツとした笑顔のボーイが「お待ちしておりました!」と二人のすぐそばまで寄ってきた。
ホールでは正装した客たちがワイングラスを傾け、楽しそうに食事をしており、笑い声が絶えない。普段着のまま足を踏み入れた凪と駿は「完全に場違いじゃないか?」と小さくなりかけるが、ボーイは「本日はどなた様も歓迎の日です」と優雅な手つきで中央の特等席へ案内してくれる。
ふかふかの椅子に沈み込み、重厚なマホガニーのテーブルを前にして、二人は完全に気圧されていた。天井のシャンデリアが放つ光が、並べられた銀食器に反射して眩しい。
「オレたち、本当にここでいいのかな。長靴だし」
「ああ。……場違いどころか、異次元に来た気分だぜ」
二人が小声で身を寄せ合っていると、凪がふと、手元にセッティングされたカトラリーに目を留めた。
「あ、このナイフ、柄のところが魚の形になってるよ。可愛いなw」
凪が小さく笑って指差した先には、精巧に彫り込まれた銀色の魚が横たわっていた。
「魚か……」
その造形を眺めた瞬間、駿の脳裏に車の後ろに積んだ釣り道具の存在が蘇った。
「……あー、あの。すみません、ちょっといいですか」
場違いなのは百も承知で、駿は音もなく寄り添ってきたボーイに声をかけた。
「はい、何なりとお申し付けください」
「あの、俺たち川釣りに行く途中なんですけど……この辺りで、魚のさばき方が上手なお店ってありますか?」
駿が尋ねると、ボーイはにっこりと微笑んだ。
「夜釣りは危険ですから、明日の朝になさってはいかがですか?」
「えっ?夜釣り? 」
「いやいや、まだ昼過ぎだろ……」
凪が首を傾げながら、何気なく時間を確認しようとスマホを取り出した。画面に表示された時刻を見て、凪は言葉を失う。表示されているのは『19:56』だった。
10時に出発し、昼前に森へ入ったはずの二人から、明らかに数時間が完全に消えていたのだ。
凪が声を上げた瞬間、近くのテーブルに座っていた数人の客が、手にしていたワイングラスを止めてこちらを向いた。
優雅な仕草ではあったが、その視線はどこか無遠慮だ。凪の頭のてっぺんから、泥のついた靴の先までをゆっくりと、舐めるように這わせる。
まるで、持ち込まれた「品物」の出どころや鮮度を厳格に鑑定しているかのような……そんな、感情の見えない冷徹な視線。
「やっぱりオレたち、相当浮いてるよね」
凪が居心地悪そうに肩をすくめると、客たちは満足げに口角をわずかに上げ、また何事もなかったかのように食事に戻った。
だが、その一瞬の沈黙は、凪の首筋に冷たい産毛を逆立たせるには十分だった。
ボーイは駿の場違いな質問を、完璧な微笑みで受け流した。
「当館のシェフは、あらゆる『素材』の扱いを熟知しております。どうぞ、ご安心ください」
ボーイが恭しく一礼して離れると、二人は安心したように顔を見合わせた。
「熟知、か。 マグロの解体ショーみたいなこともできちゃうってことかな。すごいな、プロの料理人は」
「ああ。ジビエから魚まで何でもござれってことだろ」
「さっきの変な視線も、きっと『こんな所にまで釣りに来るなんて、熱心な客だな』って感心されてただけかもねw」
「かもな。……お、そうだ。一応、現在地でも保存しとくか」
駿がテーブルの脇に置いたスマホを手に取った。
だが、画面に映し出されたのはさっきまでドヤ顔を決めていたDoyaではなく、激しい砂嵐のようなノイズだった。
「どういうことだよ……。さっきまでピンピンしてただろ、こいつ」
二人が画面を覗き込むと、真っ黒な背景に無機質な白い文字がポツリ、ポツリと浮かんできた。
『……再計算……完了。』
『現在地、座標……『存在しない場所』です。』
『……救出信号、圏外。』
『……健闘を祈ります。』
「……は? 存在しない場所……?」
「Doya……? お前、オレたちを置いてどこ行くんだよ……っ」
駿が慌てて画面を叩いたが、スマホはそのまま冷たく暗転した。
先ほどまでの「プロの技への感動」が一瞬で冷や汗に変わる。
「――お待たせいたしました。まずは、お二人のための『温かなスープ』でございます」
絶妙なタイミングで、銀色のトレイを捧げ持ったボーイが戻ってきた。




