9. 発熱した日、彩子に会った
10:15。内科。
白い診察室。消毒の匂い。
椅子に座る春彦の額には、じっとりと汗が浮かんでいた。
「……38.0℃ですね」
医者がカルテを見ながら言う。
「検査の結果ですが——」
一拍。
「コロナですね」
「……は?」
春彦の頭が、真っ白になる。
(……ウソだろ)
鼓動が、ドクンと強く鳴る。
(……マジかよ)
「しばらくは自宅療養になります。大学もバイトも、しばらくお休みですね」
淡々とした説明。
「解熱剤、出しておきますので」
「……あ、はい」
返事はしたが、頭には入ってこない。
(大学……行けない……)
(バイトも……)
(……最悪だ)
診察室を出る。
足元がふらつく。
(……でも)
カバンの中の処方箋を見て——
(……薬局行くよな)
そして、自然と浮かぶ顔。
「……彩子」
(……いるかもしれない)
それだけで、心臓が少しだけ速くなる。
——
外に出る。
空気が重い。
体が、熱いのに寒い。
「……っ」
ふらつきながら、歩く。
(そういえば……)
思い出す。
(熱ある人は……中入らずにベル押すんだっけ)
すみれ薬局のルール。
個室隔離。
——あの時。
「熱あるんですか?」
ぶっきらぼうな声。
冷たい視線。
(……感じ悪かったな)
苦笑が漏れる。
だが——
(……今日はどうだろうな)
薬局が、見えてくる。
白い看板。
ガラスの扉。
その時——
横のコンビニのドアが開いた。
白衣。
マスク。
そのまま、こちらへ歩いてくる。
春彦の前で、止まる。
「……あ」
思わず声が出る。
(……彩子)
少し疲れたような顔。
短い前髪。
相変わらず、きつい目つき。
だが——
確かに、彩子だ。
視線が合う。
一瞬の沈黙。
「……あの」
春彦が、ぎこちなく言う。
「熱があって……」
彩子は、特に驚く様子もなく——
店内をちらりと見る。
個室の状況を確認するように。
(……覚えてないか)
当然だ。
ただの客だ。
(……そりゃそうだよな)
その時。
一つの個室のドアが開く。
患者が出てくる。
彩子の目が、そこに向く。
「……あ、今空きましたんで」
少しだけ声のトーンが上がる。
「ちょっと待ってくださいねー。すぐ用意しますねー」
そう言って、店内へ入っていく。
(……普通だ)
春彦は、少し驚く。
(……あの時みたいじゃない)
完全に愛想がいいわけではない。
だが——
ぶっきらぼうではない。
ガラス越しに見える。
彩子が個室に入り、消毒スプレーを手に取る。
シュッ、シュッ、と音がする。
丁寧に、机や椅子を拭いている。
その姿を見て——
春彦の胸に、妙な感覚が広がる。
(……オレのために……?)
もちろん違う。
仕事だからだ。
それでも——
(……なんか……)
言葉にならない。
少しだけ、温かいような。
くすぐったいような。
しばらくして、彩子が出てくる。
「どうもお待たせしましたー」
軽く手で示す。
「こちらでお待ちくださいねー」
個室へ案内する。
春彦は、ゆっくりと中へ入る。
小さな空間。
消毒の匂い。
さっきまで彩子がいた場所。
心拍数が上がる。
思い切って声をかける。
「……ありがとう」
小さく言う。
彩子は一瞬だけ目を上げる。
「いえー」
少し間のある返事。
そのまま続ける。
「処方箋と、お薬手帳お願いしますー」
「……あ、はい」
春彦は処方箋を差し出す。
だが——
「あれ……」
カバンの中を探る。
「……ちょっと待ってください」
ガサガサと音がする。
彩子は、目の前で立ったまま待っている。
(……近い)
心臓が、ドクンと鳴る。
(……なんだこれ)
ようやく見つける。
「……ありました」
差し出す。
「お願いします」
彩子が受け取る。
「はーい」
そのまま、個室を出ていく。
ドアが閉まる。
静寂。
「……はあ……」
深く息を吐く。
胸が、うるさい。
(……普通じゃん)
ぽつりと呟く。
(……全然、普通に話せるじゃん)
(事務的だけど……)
短い時間。
それでも——
二人きりの空間。
しかも——
(……あの部屋……)
(……彩子が掃除してくれた)
また、妙な感覚が胸に広がる。
——
待つ時間。
春彦は、ドアの隙間から外を覗く。
(……どこだ)
彩子の姿を探す。
だが——
見えない。
そのまま、しばらく。
ノック。
別の薬剤師が入ってくる。
「お薬の説明しますね」
(……あ)
一瞬で分かる。
(……違う)
彩子じゃない。
説明が始まる。
だが——
頭に入らない。
(……くそ)
心の中で呟く。
(……彩子じゃないのかよ)
どこか、がっかりしている自分がいる。
説明と会計を終える。
個室を出る。
カウンターへ。
その時——
いた。
彩子。
パソコンに向かっている。
忙しそうに、画面を見ている。
「……」
春彦は、横目で何度も見る。
ちらり、ちらりと。
だが——
彩子は気づかない。
ただ仕事に集中している。
(……まあ、そうだよな)
小さく苦笑する。
そのまま、外へ出る。
——
外の空気。
まだ、体はふらつく。
だが——
頭の中は、別のことでいっぱいだった。
「……なんだよ」
ぽつりと呟く。
(……気になるな)
あの顔。
あの声。
あの距離。
ぐるぐると、思い出す。
(……仕返しとか)
首を振る。
「……どうでもいい」
完全に、消えていた。
(……それより)
カバンに手を当てる。
中のノート。
(……これ)
(どう使う)
一回だけ。
絶対に、失敗できない。
(……彩子に……使う?)
心臓が、少し強く鳴る。
(……まさか)
だが——
さっきの距離感。
空気。
会話。
(……近づいてる……?)
そんな錯覚が、胸に広がる。
ドクン、ドクン、と。
(……そのためには)
表情が、少し引き締まる。
(もっと検証しないと)
(絶対に、ミスらない形で)
ふらつく足取りで、歩き出す。
体はしんどい。
だが——
心だけが、妙に熱かった。




