10.減っていくノート
18:00。春彦の部屋。
窓の外は、夕焼けがゆっくりと夜に溶けていく時間。
ベッドの上に腰を下ろし、春彦は静かに息を吐いた。
「……治ったか」
数日前までの悪寒と熱が、嘘のように引いている。
体は軽い。
だが——
頭の中は、相変わらずあのノートで埋め尽くされていた。
カバンから取り出す。
白い表紙。
——“願い事を書きましょう”。
「……」
指でなぞる。
(……複数はダメだ)
父の競馬。
あの結果。
(……最初の一つだけが叶う)
だが——
「……まだ、仮説だ」
低く呟く。
(……裏付けが必要だ)
もし。
(……もし、複数書いて全部叶うなら)
(……あの時の三連単は、なぜ外れた?)
矛盾が生まれる。
(……仮説の信頼度が下がる)
拳を軽く握る。
(……試さないといけない)
だが——
「……自分では無理だ」
はっきりしている。
(……一回しか使えない)
自分で試した瞬間、終わる。
(……他人でやるしかない)
しかも——
(……このノートの力だとバレずに)
目が鋭くなる。
(……もし広まったら)
(……終わりだ)
想像する。
奪い合い。
監視。
混乱。
「……めんどくさいことになる」
小さく舌打ちする。
(……父と母はもう使った)
(……大原も)
残る選択肢を考える。
(……バイト先は無理だ)
ノートを持ち歩けない。
(……となると……)
一つ。
「……大学か」
結論が出る。
その瞬間——
ふっと、思考が逸れる。
「……」
目を閉じる。
浮かぶ顔。
彩子。
あの、少し不機嫌そうな目。
(……なんでだよ)
苦笑が漏れる。
(……最初、最悪な印象だったのに)
なのに今は——
「……気になるな」
はっきりと認める。
春彦は、これまで——
女性と付き合ったことがない。
デートすら、ない。
(……でも)
カバンの中のノートに、視線が落ちる。
(……これがあれば)
喉が、わずかに鳴る。
(……付き合える)
その言葉が、現実味を帯びる。
ゆっくりと、想像が広がる。
——彩子が、自分の隣を歩いている。
少し距離を空けながら。
ツンとした顔で。
「別に……ついてきてるわけじゃないし」
そんなことを言いながら。
ウインドウの前で立ち止まる。
「……これ、どう思う?」
ちらっとこっちを見る。
春彦が答えると——
「……ふーん」
素っ気ない返事。
でも、どこか嬉しそうな目。
——二人で食事。
向かい合って座る。
マスクを外す仕草。
だが——
そこはぼやけている。
(……顔、知らないんだよな)
見えているのは、目だけ。
それでも——
十分だった。
(……いいな)
胸が、じんわりと温かくなる。
だが——
次の瞬間。
想像が、急に変わる。
時計の針。
4時間。
カチッ、と音がする。
その瞬間——
彩子の表情が変わる。
スッと、冷めた目。
「……何これ」
ジロリと睨む。
「……気持ち悪」
踵を返す。
そのまま、去っていく。
「……っ」
春彦は、目を開いた。
「……ダメだろ、それ」
即座に否定する。
(……そんなの、最悪だ)
胸の奥が、ざわつく。
(……4時間だけの関係とか)
(……意味ねえだろ)
拳を握る。
(……じゃあどうする)
思考が、再び回り始める。
(……4時間経っても)
(……関係が続くようにするには?)
(……書き方……?)
「……あるはずだ」
ノートを手に取る。
(……抜け道が)
(……条件を満たす書き方が)
その時だった。
「……ん?」
違和感。
指先に伝わる感触。
(……なんだ?)
ノートを持ち直す。
「……薄い?」
眉をひそめる。
ページをパラパラとめくる。
「……おかしい」
明らかに、枚数が少ない。
机に置く。
一枚ずつ、数える。
「……1、2、3……」
静かな部屋に、声だけが響く。
「……20、21」
止まる。
「……21枚?」
顔が固まる。
(……30枚じゃなかったか?)
もう一度数える。
結果は同じ。
21枚。
「……なんでだよ」
喉が乾く。
(……減ってる?)
思い返す。
(……気づかなかっただけで)
(……少しずつ……?)
背筋に、冷たいものが走る。
(……これ)
「……消えて行ってる……?」
思わず呟く。
(……条件は?)
(……書いたら減る?)
(……時間で減る?)
(……何かの代償……?)
分からない。
何一つ、確定していない。
だが——
一つだけ、はっきりしている。
「……時間がない」
低く言う。
(……もし1日1枚減るなら)
(……あと21日)
(……3週間)
だが、それすら保証はない。
(……もっと早いかもしれない)
(……ルールが読めない)
心臓が、重く打つ。
「……のんびりしてる暇ねえな」
ノートを閉じる。
強く握る。
(……明日だ)
(……大学で、また試す)
(……確証を積み上げる)
そして——
(……絶対に外さない形で)
一つの願いを、思い描く。
「……彩子」
その名前を、静かに口にする。
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
(……近づけるか)
(……このノートで)
夕焼けが、完全に消えた。
部屋の中に、静かな夜が落ちていく。




