11.大原が彩子を狙う
10:00。大学のキャンパス。
春彦はゆっくりと門をくぐった。
春の空気。ざわめく学生たち。久しぶりの光景。
「……戻ってきたか」
小さく呟く。
体はもう問題ない。だが——
カバンの中。
あのノートの存在が、すべてを変えていた。
(……検証)
頭の中で繰り返す。
(……一つ目しか叶わない)
だが、それはまだ仮説に過ぎない。
(……裏付けがいる)
歩きながら考える。
(……どうやって試す)
(……自分は使えない)
(……他人でやるしかない)
しかし——
(……怪しまれずに)
難しい。
その時だった。
「おーい、春彦!」
振り返る。
大原が、手を振りながら近づいてくる。
「久しぶりじゃねえか!」
「ああ……ちょっとコロナで」
「マジかよ、大丈夫か?」
「もう平気」
軽く答える。
だが——
大原の顔は、それ以上に何かを言いたげだった。
ニヤニヤしている。
「なあ、あれ覚えてる?」
「……あれ?」
「からあげクンのやつ!」
その瞬間——
ギクッ、と心臓が跳ねる。
(……来た)
「お前のノートに書いたらさ、マジで当たったやつ!」
大原は興奮気味に言う。
「あれ、ヤバかったよな!」
「……いや、あれはたまたま」
春彦はすぐに否定する。
(……触れるな)
(……それ以上言うな)
「いやいやいや!あんなタイミングあるか?」
食い下がる大原。
春彦は目を逸らす。
「偶然だって」
「えー……」
不満げな顔。
そして——
「なあ、もう一回やろうぜ」
「……は?」
嫌な予感。
「叶えたいこと、またできたんだよ」
(……やめろ)
春彦の心の中で警鐘が鳴る。
「いや、だからあれは——」
話を逸らそうとする。
だが、その瞬間。
(……待てよ)
思考が止まる。
(……一回だけ)
(……叶うのは、一回だけ)
(……大原は……)
目がわずかに見開く。
(……もう使ってる)
からあげクン。
あれが“最初の願い”。
つまり——
(……もう効かない)
一瞬で計算が終わる。
(……なら)
「……ちなみに、どんなこと?」
春彦は逆に聞いた。
大原は周囲を見回す。
「……誰にも言うなよ?」
声を潜める。
顔が近づく。
「すみれ薬局にさ」
その瞬間。
春彦の鼓動が、強く鳴る。
「彩子ってのがいるんだけど」
——ドクン。
「そいつと、付き合いたいんだよ」
時間が、止まった。
「……は?」
思わず声が漏れる。
頭が真っ白になる。
(……彩子?)
(……なんでお前が知ってるんだ)
視界が揺れる。
「どうした?」
大原が怪訝な顔をする。
春彦は慌てて顔を整える。
「……いや、なんでもない」
無理やり平静を装う。
「どんな子なんだよ」
声が少しだけ硬い。
大原はニヤリと笑う。
「目つき悪くてさ、愛想もねえんだけど」
(……それだ)
「でもな、あれ絶対美人だぞ」
自信満々に言う。
「マスク越しでも分かる」
(……分かる)
春彦の中で、妙な共感が生まれる。
「オレさ、ああいう女、落としたいんだよ」
その言葉に——
胸の奥が、ざわつく。
(……ふざけんなよ)
内心で吐き捨てる。
(……なんでお前みたいなのが)
(……なんで彩子を)
歯を食いしばる。
だが——
表には出さない。
「……へえ」
軽く流す。
その時。
大原が言う。
「なあ、そのノート貸してくれよ」
(……来た)
春彦は一瞬だけ迷う。
だが——
(……効かない)
(……もう一回目は終わってる)
結論は出ている。
「……いいけど」
カバンからノートを取り出す。
大原に渡す。
ペンを取り出す大原。
迷いなく書く。
——“すみれ薬局の彩子と付き合いたい”
その文字を見た瞬間——
春彦の背筋に、冷たいものが走る。
(……よかった)
(……これが一回目じゃなくて)
もしこれが有効なら——
想像するだけで、吐き気がする。
(……4時間でも)
(……あいつが彩子に何かするなんて)
拳がわずかに震える。
ノートを閉じる大原。
「よし」
満足げな顔。
春彦は問いかける。
「……もし、実現しなかったらどうすんだよ」
大原は肩をすくめる。
「そん時は普通に口説くわ」
「……は?」
「何回でもアタックすればいいだろ」
あっけらかんと言う。
その言葉に——
春彦の心臓が、強く跳ねる。
(……やめろ)
(……やめろよ)
(……それは)
ノートは関係ない。
だが——
(……もし)
(……万が一)
(……彩子が……)
喉が渇く。
(……受け入れたら?)
一瞬で最悪の未来がよぎる。
彩子が、大原の隣にいる光景。
笑っている。
——ありえない。
(……いや)
(……分からない)
焦りが、一気に押し寄せる。
(……検証どころじゃねえ)
(……時間がない)
ノートの枚数。
減り続けている。
(……うかうかしてたら)
(……全部終わる)
視線を上げる。
大原。
自信満々の顔。
「じゃ、オレこの後行ってくるわ」
カバンを担ぐ。
「すみれ薬局」
その一言で、心臓が跳ねる。
「今日、コクる」
ニヤリと笑う。
「じゃあな!」
手を振って去っていく。
その背中を——
春彦は、ただ見ているしかなかった。
(……待てよ)
(……マジで行くのか)
(……やめろ)
足が、動かない。
ただ、遠ざかる背中。
ざわめくキャンパスの中で——
春彦だけが、取り残されていた。




