12.大原の暴走
11:30。すみれ薬局の前。
春彦は、息を切らしながら立ち止まった。
「……っ、は……は……」
胸が上下する。喉が焼けるように熱い。
(……間に合ったか)
ガラス越しに中を覗く。
——いない。
大原の姿は、まだない。
「……よかった」
安堵が漏れる。
(……さすがにオレの方が早い)
ここまでほとんど走ってきた。
額の汗を拭う。
だが——
(……中、入れねえ)
すみれ薬局は処方箋薬局。
処方箋がなければ、自然に入る理由がない。
(……不審者になる)
舌打ちしたい気分を抑える。
周囲を見渡す。
そして——
建物の影に身を滑り込ませる。
「……ここか」
外から、斜めに中が見える位置。
身を隠しながら、じっと覗く。
(……どこだ)
目を凝らす。
その時——
いた。
カウンターの奥。
立ったまま、パソコンの画面を見ている。
白衣。
マスク。
そして——
あの目。
「……」
ドクン、と心臓が鳴る。
(……彩子)
無意識に、息が浅くなる。
マスクで顔は隠れている。
それでも——
(……分かる)
あの、少し鋭い目つき。
淡々とした動き。
(……やっぱり……)
春彦は、自覚する。
確実に惹かれている。
目が離せない。
時間がゆっくりになる。
——その時。
「……来た」
遠くから、見慣れたシルエット。
大原だ。
ニヤけた顔で、まっすぐ歩いてくる。
(……あいつ)
(……本気かよ)
春彦の胸に、不安が広がる。
(……ノートは効かない)
(……一回目は終わってる)
理屈では分かっている。
だが——
(……もし)
嫌な想像がよぎる。
(……普通にOKされたら?)
心臓が、嫌な音を立てる。
「……いや、ない」
小さく否定する。
(……いきなり来たやつに告白されて)
(……OKするわけねえだろ)
まして——
(……大原だぞ)
太っていて、見た目も冴えない。
(……大丈夫だ)
自分に言い聞かせる。
だが——
一抹の不安が、消えない。
大原が、自動ドアの前に立つ。
ウィーン、と音がして扉が開く。
中へ入っていく。
春彦は息を止める。
(……来た)
店内。
彩子が、パソコンの操作を止める。
顔を上げる。
来客を認識する。
カウンター越しに、大原に向き直る。
口が動く。
(……処方箋と、お薬手帳……って言ってるな)
いつもの流れ。
だが——
大原は、何も出さない。
口を開く。
何かを言う。
彩子が、少し首を傾げる。
「……?」
聞き返しているようだ。
大原が、もう一度話す。
身振りを交えて。
その瞬間——
彩子の表情が、変わる。
眉がわずかに寄る。
片手をひらひらと振る。
(……断ってる)
はっきり分かる。
大原は、まだ食い下がる。
口を動かす。
一歩、前に出る。
その瞬間——
彩子が、後ずさる。
「……」
春彦の心臓が、強く鳴る。
(……やめろ)
空気が張り詰める。
奥から、別の人影が出てくる。
男性薬剤師。
彩子が、何かを言う。
少し早口で。
そして——
大原を指さす。
怪訝な顔。
男性薬剤師が、大原に向き直る。
低く、何かを言う。
注意しているような口調。
彩子は、そのまま奥へ下がる。
距離を取る。
(……終わりだ)
状況は明らかだった。
告白。
そして——
拒絶。
さらに——
しつこさに警戒。
春彦の胸から、力が抜ける。
「……はあ……」
大きく息を吐く。
(……よかった)
心の底から思う。
(……当たり前だ)
(……あんなの、通るわけない)
店内では、男性薬剤師と大原が話している。
大原は、不満そうな顔。
だが、やがて——
諦めたように肩を落とす。
そのまま、踵を返す。
自動ドアが開く。
外へ出てくる。
その顔は——
露骨に不機嫌。
春彦は、影に身を隠す。
気づかれないように。
大原はそのまま歩きながら、スマホを取り出す。
何かを操作している。
その瞬間——
ブブッ。
春彦のポケットが震える。
「……っ」
スマホを取り出す。
画面を見る。
大原からのLINE。
——“おい 上手くいかなかったぞ”
(……そりゃな)
春彦は、少しだけ口元を歪める。
すぐに打つ。
——“残念だったな。からあげクンはたまたまだって分かっただろ”
送信。
数秒後。
既読。
そして——
返信。
「……」
画面を見る。
その文字を見た瞬間——
背筋が凍った。
——“オレは諦めない。絶対に彩子を落とす。”
「……は?」
思わず声が漏れる。
(……マジかよ)
鼓動が、ドクンと強く鳴る。
(……やめろよ)
さっきの光景が蘇る。
後ずさる彩子。
距離を取る仕草。
(……あれで分かんねえのかよ)
だが——
大原は本気だ。
完全にスイッチが入っている。
春彦の手が、わずかに震える。
(……これ)
(……まずいぞ)
ノートの問題じゃない。
現実の問題。
(……あいつ、何回でも行く気だ)
視線を上げる。
大原の背中が遠ざかっていく。
その背中が——
妙に、大きく見えた。




