13.彩子を守る男
午後三時。春彦の家のリビングには、どこか落ち着かない空気が漂っていた。
玄関のドアが開き、春彦が帰ってくる。靴を脱ぎながらも、その表情は晴れない。頭の中にあるのは、ただ一つ——大原の存在だった。
(あいつ、本気だ…)
ソファに腰を落とし、天井を見上げる。
(何度でも行くつもりなのか?もし…万が一、彩子が折れたら?いや、それはない。でも…もし逆に、しつこすぎて警察沙汰になったら…)
胸の奥がざわつく。
(最悪だ。どっちに転んでも最悪だ)
春彦は両手で顔を覆った。
(止めないといけない。でも、どうやって?)
彩子に直接伝える?——無理だ。自分もただの客に過ぎない。むしろ警戒されるだけだ。
考えが堂々巡りする。
そのときだった。
ふと、テーブルの上に一枚の紙が目に入る。
「……処方箋?」
春彦はそれを手に取る。名前を見ると、母のものだ。
「母さん!」
キッチンの方へ声をかけると、母がひょっこり顔を出す。
「なに?」
「これ、どうしたの?」
「ああ、それね。今日ちょっと腰が痛くて整形外科行ったのよ。湿布もらったんだけど、薬局が混んでてさ。面倒くさくなって帰ってきたの」
その言葉を聞いた瞬間——
春彦の中で、何かが繋がった。
(……これだ)
「オレ、行ってこようか?」
母は少し驚いた顔をする。
「え、いいの?助かるけど」
「うん、どうせ暇だし」
「ありがと〜。ほんとあそこいつも混んでるから嫌でね」
春彦は軽く頷くと、処方箋を手に取った。
だがその胸の内は、静かに燃えていた。
(これで…中に入れる)
——すみれ薬局。
彩子がいる場所。
そして、大原が再び現れるかもしれない場所。
春彦は靴を履き、家を出る。
外の空気は少し湿っていて、空はどんよりとしている。だが春彦の足取りは速かった。
(彩子…まだいるよな)
あの男に、また絡まれていないか。
胸の奥に、得体の知れない焦燥が広がる。
やがて、見慣れた薬局の建物が視界に入る。
春彦は足を止め、ガラス越しに中を覗き込む。
——いた。
カウンターの中で、パソコンに向かう彩子の姿。
白衣、短い前髪、マスク、そしてあの鋭い目。
それを見た瞬間、胸がドクンと大きく鳴る。
(よかった…)
春彦は静かに息を吐き、ドアを押して中へ入った。
店内は混雑していた。
椅子はほぼ埋まり、空気は重たい。咳払い、紙の擦れる音、低い会話。静かながらもざわついている。
「処方箋お願いします」
応対したのは別の男性薬剤師だった。
春彦は内心舌打ちする。
(…違う)
だが表情には出さず、処方箋を差し出す。
「母のなんですけど、大丈夫ですか?」
「はい、大丈夫ですよ」
淡々と処理され、番号札を渡される。
その間も、春彦の視線は自然と——いや、無意識に彩子へと向かっていた。
彼女は忙しそうにキーボードを叩いている。視線は画面に釘付けだ。
(…やっぱり、いいな)
自分でも理由は分からない。
愛想がいいわけでもない。むしろ逆だ。
それでも——目が離せない。
春彦は待合の椅子に腰掛ける。
番号は、まだ20人以上先。
だがそれでも構わなかった。
(いくらでも待てる)
スマホを取り出し、画面を見るふりをしながら、時折視線を上げる。
静かな空間。
テレビも音楽もない。
聞こえるのは、名前を呼ぶ声と、薬の説明だけ。
向かいの席では老人が貧乏ゆすりをしている。
時間がゆっくりと流れる。
——15分ほど経った頃だった。
その老人が、杖をついて立ち上がる。
ヨロヨロとした足取りで、カウンターへ向かう。
その先には——彩子。
「おい!」
杖の先が、まっすぐ彩子に向けられる。
店内の空気が一瞬で変わる。
視線が一斉に集まる。
彩子が顔を上げる。
「はい?」
老人は怒気を含んだ声で言い放つ。
「一体どれだけ待たせるんだ!」
彩子の表情が、わずかに強張る。
「順番に作ってますんで、もう少しお待ちくださいねー」
平静を装っているが、その声はほんの少しだけ揺れていた。
「もう一時間は待ってるぞ!」
「番号札お持ちですか?」
彩子が確認すると、老人は乱暴に差し出す。
「あと10人ほどですので…」
「なんでそんなにかかるんだ!」
声が大きくなる。
周囲がざわつく。
彩子は言葉を選びながら答える。
「今日は混み合ってまして…」
だが老人は聞く耳を持たない。
「ここはいつも遅すぎるんだ!」
その一言に、彩子の肩がわずかに震えた。
調剤室の中のスタッフはまだ気づいていない。
この場にいるのは——彩子一人。
空気が張り詰める。
誰も動かない。
誰も、何も言わない。
そのときだった。
——コツン。
軽く、しかし確かな音。
老人の肩に、手が置かれる。
「……ちょっと、おじいさん」
低く、抑えた声。
老人がゆっくりと振り返る。
そこに立っていたのは——
怒りを押し殺した表情の、春彦だった。




