14.消えていくページ、固まる決意
午後四時半。すみれ薬局。
張り詰めた空気の中、老人はゆっくりと振り返り、春彦を鋭く睨みつけた。
「……なんだ?」
低く、濁った声。
春彦は一歩も引かず、静かに口を開く。
「他の人も待ってますから。席に戻ってもらえますか」
あくまで穏やかに。だが、その声の奥には抑えきれない怒りが滲んでいた。
老人の眉がピクリと動く。
「どこのもんだ、お前は」
一歩、距離を詰めてくる。
だが春彦は視線を逸らさない。
「誰とかどうでもいいでしょ。とにかく戻ってください」
その瞬間——
「なんだとぉ!?」
老人が激昂し、胸ぐらを掴んできた。
周囲から小さな悲鳴が上がる。
椅子に座っていた人々がざわめき、空気が一気に荒れる。
その騒ぎに、調剤室の奥から白衣の男性スタッフが二人飛び出してきた。
一人は眼鏡の男。すぐに彩子の元へ駆け寄る。
「どうした?」
彩子は小さく、しかし早口で事情を説明する。声は震えていた。
春彦にはその内容は聞こえない。ただ、彼女の顔色が明らかに悪いのだけは分かった。
もう一人のスタッフが、春彦と老人の間に割って入る。
「お客様、落ち着いてください!」
強い口調で制止する。
老人は舌打ちしながらも、掴んでいた春彦の服を乱暴に離した。
「チッ……」
ブツブツと文句を言いながら、杖をついて席へ戻っていく。
その背中を見送りながら、春彦は拳を握りしめていた。
(このジジイ……)
胸の奥で、怒りがぐつぐつと煮えたぎる。
スタッフが春彦に向き直る。
「お怪我はありませんか?」
「あ……はい、大丈夫です」
短く答える。
薬局内はまだざわついていた。
誰もがさっきの一件を引きずっている。
だが春彦の意識は——ただ一人に向いていた。
(彩子は……?)
カウンターを見る。
——いない。
さっきの眼鏡のスタッフに連れられ、調剤室の奥へ消えていた。
その事実に、胸の中で何かが軋む。
(……なんでだよ)
怒りの矛先は老人に向く。
(あいつが余計なことしなければ……)
——もっと、見ていられたのに。
春彦はゆっくりと席へ戻る。
ぽっかりと穴が空いたような空間。
さっきまでそこにいた彩子の姿は、もうない。
時間が、やけに遅く感じる。
時計の針の音すら聞こえそうなほど、静まり返った空間。
春彦は何度も調剤室の方へ視線を向ける。
だが、奥の様子は見えない。
(いるのか……?)
分からない。
ただ、いないという事実だけが、じわじわと心を締め付ける。
——しばらくして。
あの老人の番号が呼ばれる。
何事もなかったかのように立ち上がり、薬を受け取り、去っていく。
春彦のことなど、一切気にも留めずに。
その姿に、また苛立ちが込み上げる。
(ふざけんなよ……)
だが、どうすることもできない。
さらに15分ほど経った頃。
「83番の方〜」
ようやく呼ばれる。
春彦が立ち上がる。
カウンターに向かうと、応対したのは——
さっき彩子を連れて行った、眼鏡の薬剤師だった。
「先ほどは……どうもすいませんでした」
申し訳なさそうに頭を下げる。
春彦は少しだけ間を置いて、
「いえ……」
と短く返す。
そして——一瞬、迷う。
だが、勇気を振り絞る。
「あの……彼女、大丈夫ですか?」
声が少しだけ硬くなる。
薬剤師は優しく頷いた。
「はい、大丈夫です。ありがとうございます」
その言葉に、ほんの少しだけ胸の力が抜ける。
「……そうですか」
それ以上は何も言わない。
母の湿布を受け取り、会計を済ませる。
そして——
春彦は、すみれ薬局を後にした。
ドアを出たあとも、何度も振り返る。
ガラス越しに中を覗く。
——だが、彩子の姿は見えない。
外の空気は少し冷たい。
夕方の光が街を薄く染めている。
(今日は……最悪だったな、彩子)
太った男にいきなり告白され、
次はあんな老人に絡まれて——
(厄日だろ……完全に)
春彦は小さく息を吐く。
(……オレのこと、覚えてくれたかな)
ふと、そんなことを考えてしまう自分に苦笑する。
建物の角を曲がる。
——もしかしたら。
(外で待ってたり……)
そんな期待が、一瞬よぎる。
足を止める。
周囲を見回す。
——だが。
誰もいない。
風が、ひゅっと吹き抜ける。
「……はは」
思わず苦笑が漏れる。
分かっていたはずなのに。
胸のどこかで期待していた自分が、少しだけ情けない。
そのまま歩き出す。
ふと、カバンの中の感触が気になった。
——ノート。
あの、不思議なノート。
春彦は足を止め、取り出す。
パラパラとページをめくる。
その瞬間——
違和感。
「……あれ?」
指が止まる。
明らかに、薄くなっている。
急いで数える。
「……17枚?」
喉がひくりと鳴る。
(……嘘だろ)
前に見たときより——一気に4枚減っている。
背筋に冷たいものが走る。
(なんでだ……?)
使っていない。
誰にも書かせていない。
なのに——減っている。
(ヤバい……)
鼓動が早くなる。
(このまま……全部消えたら……?)
ぞっとする。
何も使えずに、終わる?
あの力を、ただ失うだけ?
そんなの——
絶対にあり得ない。
春彦はノートを強く握りしめた。
その瞳には、もう迷いはなかった。
(……彩子に使う)
他のことなど、どうでもいい。
金でも、地位でもない。
(あいつに使う)
それだけが、今の春彦のすべてだった。




