15.ノートを狙う者
午後五時。春彦の家。
玄関のドアが開き、春彦がゆっくりと入ってくる。
靴を脱ぐ動作にも、どこか苛立ちが滲んでいた。
「ただいま」
リビングに顔を出すと、母がテレビを見ながら振り返る。
「あ、おかえり。薬どうだった?」
春彦は無言で湿布の袋を差し出す。
「はい」
母はそれを受け取りながら、じっと春彦の顔を見た。
「……どうしたの?なんかあった?」
その視線は鋭い。母親特有の勘だ。
春彦は一瞬だけ言葉に詰まるが、
「……別に。なんでもない」
そっけなく答えると、そのまま踵を返す。
階段を上がる足音が、やけに重く響いた。
——自室。
ドアを閉めた瞬間、張り詰めていたものが一気に溢れる。
「……クソが」
ぽつりと吐き捨てる。
頭に浮かぶのは、あの老人の顔。
そして——怯えた彩子の表情。
春彦はベッドに座り、カバンを開ける。
中から、あのノートを取り出す。
“願い事を書きましょう”
白い、何の変哲もないノート。
だが、その中には——現実を歪める力がある。
春彦はペンを握る。
ノートを開く。
——書こうとする。
だが、その手が止まる。
「……いや」
ぐっと力を込めて、ペン先を紙から離す。
(待て……)
深く息を吐き、思考を巡らせる。
(仮に——“彩子と付き合いたい”って書いたらどうなる?)
頭の中で、シミュレーションが始まる。
(効き目は四時間……)
書いたあと、すぐに告白しに行く?
大原みたいに、いきなり突撃する?
(……もし効かなかったら?)
背筋が冷える。
(次は……通報される)
想像するだけで、ゾッとする。
「じゃあ……」
春彦は小さく呟く。
「……彩子の方から告白してくる、って書く?」
夢みたいな話。
だが、このノートなら——あり得る。
(でも……いつ来る?)
書いた瞬間?
それとも数分後?
もし来たとして——
(四時間後……どうなる?)
想像が浮かぶ。
さっきまで笑っていた彩子が、急に真顔に戻る。
「……何してるの、私」
そう言って、去っていく。
「……嫌だ」
思わず声に出る。
そんなのは——耐えられない。
「じゃあ……デート?」
これも同じだ。
四時間後には、すべてが消える。
関係も、感情も。
「……クソ」
ノートを軽く叩く。
「使えるようで……使えねえじゃねえか」
苛立ちが募る。
だが、その中で——
ふと、一つの考えが浮かぶ。
(……違う)
春彦の目が、わずかに見開かれる。
(彩子“そのもの”に使うからダメなんだ)
四時間で消える。
だから意味がない。
(じゃあ……)
思考が一気に加速する。
(彩子が俺に惹かれる“原因”を作ればいいんじゃないか?)
その瞬間、背筋に電流が走る。
(それなら……四時間経っても残る)
「……これだ」
小さく呟く。
だが——すぐに眉をひそめる。
(じゃあ……何に使う?)
自分がイケメンになる?
長身になる?
(……いや)
首を振る。
(それも四時間だ)
四時間後には元通り。
幻だ。
「ダメだ……」
頭を抱える。
「何も……思いつかねえ……」
静まり返る部屋。
その時だった。
——ブブッ。
スマホが震える。
春彦は顔を上げる。
画面を見る。
「……堀田?」
同級生の名前。
2,3回くらいしか話したことがない。
(なんだ……?)
嫌な予感がする。
だが、無視するわけにもいかない。
通話ボタンを押す。
「もしもし」
『おー、春彦?久しぶりだな』
軽い声。
当たり障りのない世間話が続く。
天気だの、授業だの。
春彦は適当に相槌を打つ。
「へえ」「そうなんだ」
だが——
(……なんか言いたそうだな)
違和感がある。
会話の裏に、目的が透けて見える。
春彦は痺れを切らす。
「で?」
少し間を置いて、
「どうしたんだよ」
すると——
堀田の声が、少しだけ低くなる。
『……お前さ』
一拍。
『書いたことが叶うノート、持ってるんだってな』
——ドクン。
心臓が強く打つ。
(やっぱりか……)
春彦の表情が一瞬で固まる。
だが、すぐに平静を装う。
「……は?」
わざとらしく返す。
「何それ。誰から聞いたんだよ」
堀田は少し躊躇うように、
『いや、その……言うなよ?』
「だから誰だよ」
『……大原』
——あいつか。
春彦の中で、苛立ちが弾ける。
(あの野郎……)
だが声には出さない。
「そんなもんねえよ」
淡々と否定する。
「たまたまだって言っただろ。からあげクンのやつも」
堀田は食い下がる。
『いやでもさ、すぐ叶ったんだろ?』
「たまたま」
「しかも次に書いたのは叶わなかったし」
「だから偶然だって」
強めに言い切る。
だが——
堀田は引かない。
『……それでもいいからさ』
一瞬の沈黙。
『オレにも使わせてくれよ』
その一言に、空気が変わる。
春彦は目を細める。
「……何に使うんだよ」
少し低い声で聞く。
堀田は、少しだけ笑って言う。
『それは……明日会ったときに話す』
「……は?」
『電話じゃ言えねえって』
ニヤついているのが、声で分かる。
春彦は小さく舌打ちしそうになる。
だが——
(……使える)
一瞬で考えが切り替わる。
(実験台になる)
ノートの検証。
まだ足りないピースを埋めるチャンス。
「……分かった」
短く答える。
「でも、この話」
一瞬、間を置く。
「誰にも言うなよ」
声が低くなる。
堀田は慌てて、
『言わねえよ!絶対!』
「ほんとか?」
『ほんとほんと!』
「……言いふらしてねえだろうな」
念押しする。
『してねえって!』
焦った声。
春彦は少しだけ安心する。
「……ならいい」
そして、通話を切る。
部屋に静寂が戻る。
春彦はスマホを見つめたまま、ゆっくりと息を吐いた。
「……面倒なことになってきたな」
ぽつりと呟く。
だが、その目は——どこか冷静だった。
(でも……)
ノートを手に取る。
白いページが、静かにそこにある。
(……チャンスだ)
堀田。
新たな被験者。
(これで……もう一歩、確実になる)
春彦の口元が、わずかに歪む。
検証の機会は、まだ終わっていなかった。




