6. 1億2000万円の誘惑
15:00。春彦の部屋。
カーテン越しの光は鈍く、空気はどこか重たい。
ベッドに腰を下ろしたまま、春彦は天井を見つめていた。
「……彩子め」
ぽつりと呟く。
だが、その言葉にはさっきまでのような強い棘はなかった。
(……でも、今日は普通だったな)
思い返す。
薬局での様子。
無愛想ではあったが、前のような露骨な嫌悪感はなかった。
ただ淡々と、仕事をしていた。
(……目つきは悪かったけど)
思わず小さく笑う。
それでも——
(なんでだよ……)
眉をひそめる。
(なんでこんなに……頭から離れないんだ)
待ち時間、何度も視線を送っていた。
仕事をする姿。
動き。
声。
観察していた自分を思い出す。
(……印象、変わったのか?)
ほんの少しだけ。
ほんのわずかに。
あの時の“嫌な女”というイメージが、揺らいでいる。
だが——
カバンに目を向ける。
中には、あのノート。
一回だけ願いが叶う。制限時間は約4時間。
(……あれを、彩子に使う?)
春彦の指先が、わずかに震える。
その瞬間——
頭の中に、黒い映像が浮かぶ。
泣きながら謝る彩子。
その前に立つ自分。
「ほらな?どうだよ」
見下す声。
怯えた表情。
「もう二度と、あんな態度取らないって言えよ」
震える声で謝る彩子。
その姿を——
嘲笑う自分。
「……っ」
春彦は首を振った。
ブルブルと、強く。
「ダメだ……ダメだ」
低く呟く。
「……さすがに、それは……」
胸の奥に、嫌な感覚が残る。
(……可哀想だろ)
深く息を吐く。
「そんなこと……考えるな」
自分に言い聞かせる。
(だいたい……)
視線が、ノートに戻る。
(一回しか使えないんだぞ)
(もっと……自分にとって意味のあることに使えよ)
拳を握る。
(仕返しなんて……)
「……何にもならない」
結論は、すぐに出た。
「……忘れろ」
立ち上がる。
「ただの薬剤師だ」
「向こうだって……」
ドアに手をかける。
「オレのことなんか……覚えてない」
——
リビング。
テレビの音が響いている。
「さあ、いよいよ最終レースです——」
競馬中継。
父がソファに座り、食い入るように画面を見ている。
競馬新聞を広げ、赤ペンで印をつけている。
「お、春彦」
ちらっと振り返る。
「これ見ろ、最後のレースだ」
画面には、16頭の馬。
ゲート前に整列している。
「買ったの?」
春彦が聞く。
「ああ」
父は自信ありげに頷く。
「このレースは固い」
新聞をトントンと叩く。
「ここ、間違いない」
(……固い、か)
春彦は画面を見つめる。
ふと、思いつく。
「……もしさ」
「ん?」
「大穴来たら、どれくらいになるの?」
父は「はあ?」と笑う。
「大穴か?」
スマホを取り出し、オッズを調べる。
指を滑らせながら——
「……おい、見てみろ」
画面を見せる。
「三連単で……」
少し声が低くなる。
「最高で1億2000万」
「……っ」
春彦の背中に、ぞくりとしたものが走る。
「でもな」
父は笑う。
「絶対来ない」
「なんで?」
「これ見ろ」
指で示す。
「16番人気、15番人気、14番人気の順」
「そんな並び、まず起きねえよ」
鼻で笑う。
「宝くじより確率低い」
その言葉を聞いた瞬間——
春彦の中で、何かが弾けた。
(……いや)
(起きる)
(あのノートを使えば)
視界が、少しだけ歪む。
(父が書けば……)
(その通りになる)
(1億2000万……)
手のひらに汗がにじむ。
「……なあ」
春彦が言う。
「それ、買ってみたら?」
「はあ?」
父が呆れる。
「金ドブだぞ?」
「でもさ、100円くらいなら」
軽く言う。
父はしばらく考えてから——
「……まあ、ネタだな」
スマホを操作する。
「100円だけだぞ」
ポチッ、と。
「三連単……1-2-3」
「はい、買い」
肩をすくめる。
(……来た)
春彦の鼓動が早くなる。
カバンに手を入れる。
ノートを取り出す。
そっと、テーブルに置く。
「……なにそれ」
父が眉をひそめる。
「いや、さ」
できるだけ自然に言う。
「これに書いたら……その通りになるかもよ」
「はあ?」
完全に呆れた顔。
「何言ってんだお前」
「まあまあ」
笑ってごまかす。
だが——
時計を見る。
出走時刻が近い。
(……やばい)
(時間がない)
「なあ、試しにさ」
少し強めに言う。
「書いてみてよ」
「……はあ」
父はため息をつく。
「仕方ねえな」
ノートを手に取る。
ペンを持つ。
さらさらと書く。
——阪神12レース
1着 4番 アライグマラクーン
2着 6番 ネズミチュウチュウ
3着 8番 スカンクフンシャ
になれ
書き終える。
「はい、満足か?」
ノートをテーブルに置く。
その瞬間——
テレビからファンファーレが鳴り響く。
「さあ、スタートの時です!」
実況の声が張り上がる。
春彦の喉が、乾く。
(……来るのか?)
(本当に……?)
(1億2000万……?)
心臓の音が、うるさい。
ゲートの前。
馬たちが静止している。
一瞬の静寂。
——次の瞬間。
ガシャンッ!!
ゲートが開いた。
一斉に——
馬たちが、飛び出した。




