5.彩子に使うべき願い
13:00。
病院の自動ドアが開き、消毒液の匂いと外の湿った空気が入れ替わる。
春彦は処方箋の紙を片手に、ゆっくりと外へ出た。
「……」
鼻に残る薬品の匂い。
ぼんやりとした頭。
だが、思考だけは妙に冴えていた。
(……ノート)
カバンの中にある、あの白いノート。
一回だけ、願いが叶う。しかも約4時間。
その力の使い道を、春彦はずっと考えていた。
(……今日は、いるか)
頭に浮かぶ顔があった。
「彩子……」
小さく呟く。
薬局の薬剤師。
——前に来た時のことを思い出す。
頭痛で処方箋を持って訪れたあの日。
カウンターに出した瞬間——
「熱、あるんですか?」
鋭い声。
春彦は一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「……いや、ないですけど」
そう答えた瞬間——
女は、露骨に顔をしかめた。
処方箋に書かれた“解熱鎮痛剤”の文字を見て、反応したのだ。
この薬局は、熱のある患者は個室対応。
入り口にも書いてある。
春彦も知っていた。
だが、熱はなかった。
だから何も言わなかっただけ。
それなのに——
「……個室、入ってください」
ぶっきらぼうに言い放つ。
視線は、明らかに不快そうだった。
(……なんだあいつ)
名札に書かれていた名前。
——彩子。
それだけが、やけに記憶に残っていた。
(愛想の悪い女)
それが春彦の中での、彼女の全てだった。
そして今——
カバンの中には、“願いを現実にするノート”がある。
(……これで)
口元が、わずかに歪む。
(仕返ししてやるか……)
——
すみれ薬局。
ガラス扉の向こうに、白い光。
春彦は立ち止まる。
一瞬だけ、呼吸を整える。
(……いるか)
ドアを押す。
チリン、と音が鳴る。
中に入る。
薬の棚。
カウンター。
白衣のスタッフ。
そして——
「……いた」
カウンターの奥。
あの女。
彩子。
前と同じ、無表情気味の顔。
冷たい目つき。
(……覚えてるわけないか)
春彦は何事もない顔で、処方箋をスキャン機に通す。
ピッ、という音。
そのままカウンターへ。
彩子が、紙を受け取る。
視線を落とし、内容を確認する。
(……今日は)
解熱剤ではない。
だからか——
特に反応はない。
淡々と処理する。
番号札を取り、差し出す。
「お薬手帳はお持ちですか?」
声は平坦。
だが——
前回のような棘はない。
「できたらお呼びしますねー」
無愛想ではあるが、不快ではない。
春彦は一瞬、戸惑う。
「……あ、はい」
拍子抜け。
(……なんだよ)
前みたいに、何か言われると思っていた。
だが、何もない。
ただの、普通の対応。
(……こんなもんか)
椅子に座る。
待合スペース。
周囲のざわめき。
薬の袋の音。
その中で——
春彦の視線は、何度も彩子に向く。
ちらり。
また、ちらり。
(……年、いくつ違うんだろ?)
自分は大学生。
あっちは、社会人。
少し年上だろう。
忙しそうに動く。
薬を確認し、説明し、また次の患者へ。
無駄のない動き。
さっきの対応も、普通だった。
(……あの時だけか?)
ふと、そんな考えがよぎる。
だが——
すぐに打ち消す。
(いや……)
あの時の視線。
あの言い方。
あれは確かに——
感じが悪かった。
カバンに手を置く。
中のノートを意識する。
(……どう使う?)
今じゃない。
まだ使わない。
(もっと……検証してからだ)
だが——
思考は、自然と彩子へ戻る。
(……あいつに)
(どう使う?)
その時。
「——54番の方」
呼ばれる。
「……あ、はい」
春彦が立ち上がる。
カウンターへ向かう。
だが——
対応するのは、別の薬剤師。
男性。
丁寧に説明を始める。
「こちらのお薬は——」
だが、春彦の耳にはほとんど入っていなかった。
視線は——
横。
彩子の方へ。
別の患者と話している。
淡々と、仕事をこなしている。
(……)
「——以上になりますが、ご質問は」
「……あ、いえ」
ハッと我に返る。
「お会計、800円になります」
財布を取り出す。
支払う。
薬を受け取る。
その間も——
視線は、無意識に彩子を追っていた。
「ありがとうございました」
機械的な声。
春彦は軽く頭を下げる。
そして——
外へ出る。
ドアが閉まる。
外の空気。
雨は止んでいるが、地面はまだ濡れている。
春彦は、少し歩いてから立ち止まる。
振り返る。
ガラス越しに、店内が見える。
だが——
彩子は、こちらなど見ていない。
(……気づいてもいないか)
当然だ。
ただの客の一人。
それだけ。
だが——
春彦の中では、違った。
カバンに手を当てる。
(……どうする?)
頭の中で、何度も繰り返す。
(一回だけ)
(しかも……強力すぎる)
(それを——)
「……あいつに使う?」
小さく呟く。
自分でも、迷っているのが分かる。
(もったいない……?)
(それとも……)
(いや……)
思考が、ぐるぐると巡る。
だが結局——
一つの感情が、強く残る。
(……仕返し)
あの時の、不快な記憶。
視線。
言葉。
それが、じわじわと蘇る。
春彦の口元が、ゆっくりと歪む。
(……どうしてやろうか)




