4.からあげクン実験
大学のキャンパス、9:00。
朝の空気はまだ少し冷たく、濡れたアスファルトが鈍く光っている。
講堂へ向かう学生たちのざわめきの中で——
春彦は、歩きながら考えていた。
(……もし)
カバンの中のノートの存在が、やけに重い。
(大原が“からあげクン500個食べたい”って書いて……それが叶うとしたら)
あり得ない光景が、頭に浮かぶ。
(……空から降ってくるのか?)
思わず苦笑しそうになる。
(そんなバカな)
だが、すぐに思考を引き締める。
(でも……効き目は4時間)
(じゃあ、その間にどうやって“手に入る”?)
偶然?
必然?
それとも——
「……試すしかないか」
小さく呟く。
春彦は立ち止まり、カバンに手を入れる。
ノートを取り出す。
白い表紙。
——“願い事を書きましょう”
(……どう言う?)
ここが、一番の問題だった。
(もし……書いた瞬間に、何か異常なことが起きたら)
(空から唐揚げが降ってきたら……?)
(完全にアウトだ)
一気に騒ぎになる。
このノートの存在が、表に出る。
(でも……自分で書くわけにはいかない)
(一回しか使えない)
指先がわずかに強張る。
(ここは……自然に誘導する)
春彦はゆっくりと顔を上げる。
隣を歩く大原を見る。
「なあ」
「ん?」
「実現したいことってさ」
少し考えるふりをする。
「書き出すと叶うって、聞いたことない?」
大原は「あー」と頷く。
「あるある。なんかさ、目標を言語化するといいってやつだろ?」
「そう、それ」
「科学的にも裏付けられてるとか言うよな」
その言葉に、春彦の内心がわずかに緩む。
(……これならいける)
さりげなく、ノートを取り出す。
「試しにさ」
軽く言う。
「ここに書いてみろよ」
「なにそれ?」
「ただのメモ帳」
肩をすくめる。
大原は笑いながら受け取る。
「じゃあ……」
ペンを走らせる。
迷いもなく。
——からあげクン、死ぬほど食いてえ。
「はい、書いた」
軽いノリ。
冗談の延長。
だが——
春彦の心臓は、強く鳴っていた。
(……これで)
(どうなる)
表情には出さない。
あくまで自然に。
ノートを受け取り、カバンにしまう。
(……実験だ)
ほんの一瞬。
その言葉が、頭をよぎる。
——
講堂へ移動する二人。
広い教室。
ざわざわとした空気。
やがて授業が始まる。
教授の単調な声が響く。
退屈な内容。
時間がゆっくりと流れる。
(……まだか)
春彦は、何気ないふりをしながら、横目で大原を見る。
(……何も起きないのか?)
その時——
ブブッ……
小さな振動音。
大原のスマホ。
「……ん?」
大原が机の下でスマホを取り出す。
画面を見る。
その瞬間——
目が、見開かれた。
「……え?」
その反応に、春彦の心臓が跳ねる。
(……来たか)
大原はゆっくりと春彦の方を見る。
そして——
身を寄せて、小声で言う。
「なあ……」
「……どうした?」
「これ……」
スマホを見せる。
「前に応募してたやつ……」
画面には、当選通知。
「からあげクン交換券、当たった」
「……へえ」
春彦は平静を装う。
だが、大原は続ける。
声が震えている。
「しかも……」
指でスクロールする。
「回数制限なしって書いてある……」
「……は?」
思わず素の声が漏れそうになるのを、必死で抑える。
大原は興奮している。
「これやばくね!?何回でも交換できるってことだろ!?」
「……すごいな」
(……本当に……叶いやがった)
背筋に、冷たいものが走る。
だが——
春彦の中に、引っかかるものがあった。
(……待て)
「それさ」
低く聞く。
「有効期限、ないの?」
「え?」
大原がもう一度画面を見る。
細かい説明文を読む。
そして——
「……あ」
表情が変わる。
「あるわ」
「いつまで?」
「……今日の」
指でなぞる。
「14時まで」
沈黙。
二人の間に、理解が落ちる。
(……やっぱり)
春彦の中で、確信が固まる。
(4時間)
大原は一瞬固まったあと——
「やっべ!!」
勢いよく立ち上がる。
「今から行かないと間に合わねえ!!」
カバンに教科書を突っ込む。
「授業どころじゃねえわ!」
「おい、ちょっ——」
「行ってくる!!」
ダッシュ。
講堂の扉へ一直線。
バンッ、と勢いよく出ていく。
教室中の視線が、大原の背中に集まる。
ざわざわとした空気。
「なんだあいつ……」
「急に……」
ざわめきの中——
春彦だけが、動かなかった。
静かに、座ったまま。
(……やっぱりだ)
ゆっくりと息を吐く。
(あのノートに書いたことは……現実になる)
しかも——
(不自然じゃない形で)
空から降ってくるわけでもない。
突拍子もない奇跡でもない。
(……“あり得そうな形”で、実現される)
そして——
(4時間の制限付き)
口元が、わずかに歪む。
(間違いない)
(このノートは——本物だ)
だが同時に、冷静な声もある。
(……一回だけ)
(失敗は、許されない)
視線が、カバンへ向く。
中には——あのノート。
(……まだだ)
小さく呟く。
(まだ、使わない)
(もっと確証を)
(もっとデータを)
ゆっくりと目を閉じる。
(……そうだ)
(大原で試したみたいに——)
(他の人でも試す)
(何度も、何度も)
(確実にする)
そして——
目を開く。
その奥に、はっきりとした意志。
(その上で)
(自分で使うときは——)
ほんの一瞬。
ある“願い”が、頭をよぎる。
(……あの時の)
(……あの事で)
春彦の指が、わずかに震えた。




