3.四時間だけの奇跡
朝。
カーテンの隙間から差し込む光は弱く、空はどんよりと曇っていた。
リビングには、しとしとと降る雨音が響いている。
テーブルに座る春彦は、トーストを手にしたまま、ぼんやりと前を見ていた。
「……」
一口かじる。
だが、味はほとんど感じない。
昨夜のことが、頭から離れなかった。
——レストランで見た、あの光景。
女が書いた“雨が止む”という願い。
直後に、本当に止んだ雨。
男が書いた“世界が平和になる”という言葉。
そして流れた、戦争終結のニュース。
そして——
家に帰ってから。
母が書いた願い。
森下の満塁ホームラン。
現実になった、あり得ない奇跡。
「……」
だが、同時に思い出す。
二回目に書いた願いは、叶わなかった。
(……一回だけ)
春彦は小さく呟く。
「一回だけ……どんな願いでも……?」
視線が、テーブルの端に置かれたカバンへ向く。
その中に——ノートがある。
(独裁者になって……世界を支配することも……?)
自分で考えて、少し笑う。
「……まさか」
だが、すぐにその笑いは消える。
(じゃあ……大金持ちになる、とか……)
現実的な欲望が浮かぶ。
(もし……叶わなかったら?)
思考が、止まる。
(いや……違う)
ゆっくりと整理する。
(二回目に書いたことは叶わなかった)
(つまり……有効なのは一回目だけ)
窓の外から、雨音が強くなる。
その音に、春彦はふと顔を上げた。
「……あれ?」
外を見る。
雨が降っている。
(……おかしい)
昨夜、あの女がノートに書いた。
“雨が止むように”。
実際に止んだ。
(なのに……なんで降ってる?)
違和感が胸に広がる。
春彦はリモコンを取り、テレビをつける。
ニュース番組。
アナウンサーの声が流れる。
「——ロシア軍が再びウクライナへの侵攻を開始しました——」
「……は?」
思わず声が漏れる。
画面に映るのは、戦車と煙。
(……なんでだ)
昨夜、あの男が書いた。
“世界が平和になりますように”。
そして、実際に撤退のニュースが流れた。
(なのに……なんでまた戦争が……?)
胸の奥がざわつく。
春彦はスマホを手に取る。
検索する。
ニュース記事。
時刻。
「……日本時間……夜11時30分ごろ……?」
次に、天気アプリを開く。
降雨履歴。
「……雨が降り始めたのも……11時30分……?」
指が止まる。
「……同じ?」
心臓の鼓動が、ゆっくりと速くなる。
(……もしかして)
昨夜の記憶を辿る。
レストラン。
あのカップルがノートに書いた時間。
(……7時半くらい……)
そこから——
(4時間……?)
「……効き目が……あるのか?」
言葉が、静かに形になる。
(願いは叶う……でも……)
(ずっとじゃない)
思考が一気に繋がる。
「……じゃあ」
立ち上がり、スマホを握りしめる。
別のニュースを開く。
阪神対巨人。
試合結果。
「……7-7……引き分け……?」
眉が寄る。
「……なんでだ?」
森下の満塁ホームランは——
確かに、あった。
あの歓声も、映像も、母の叫びも。
(……でも……)
春彦はゆっくりと座り直す。
そして、静かに考える。
(……そうか)
「……そういうことか」
小さく呟く。
(ノートに書いたことは“起こる”)
(でも……効き目が切れても、“起こった事実”は消えない)
頭の中で整理されていく。
(雨は一度止んだ)
(ロシアも一度撤退した)
(森下も……ホームランを打った)
(その事実は……消えない)
だが——
(効き目が切れたら……元に戻る)
「……だから……」
外の雨を見る。
「また降ってる」
テレビの戦争映像を見る。
「また戦ってる」
だが、試合結果は変わらない。
(ホームランは……“過去の事実”だから……)
「……なるほどな」
春彦の口元が、ゆっくりと歪む。
理解した。
このノートの性質を。
「……使い方、間違えたら……終わるな」
ぽつりと呟く。
(例えば……身長185cmになる……って書いても……)
(4時間後には……元に戻る)
(意味がない)
背もたれに体を預ける。
天井を見上げる。
(……一回だけ)
(しかも……時間制限付き)
「……だからこそ」
低く呟く。
「使いどころ、だな……」
しばらくの沈黙。
雨音だけが響く。
——やがて。
春彦は立ち上がる。
カバンを手に取る。
中を確認する。
ノートがある。
「……よし」
家を出る。
雨の中、足早に歩く。
大学へ向かう。
——
キャンパス。
まだ朝の空気が残る時間。
学生たちがぽつぽつと集まり始めている。
その中に、見慣れた顔。
「おー、春彦!」
手を振る男。
同学年の大原。
少し太っていて、どこかのんびりした雰囲気。
春彦は軽く手を上げる。
「おはよ」
「腹減ったぁ……」
開口一番、それだった。
「朝メシ食ってねえんだよ」
腹をさすりながら言う。
「マジで今なら……」
目を輝かせる。
「からあげクン、いくらでも食える気がする」
「はは……」
春彦は苦笑する。
だが、大原は止まらない。
「てかさ、願い叶うならさ」
笑いながら言う。
「からあげクン500個とか食いてえわ」
その言葉に——
春彦の目が、わずかに光る。
「……500個?」
「そうそう!夢じゃね?」
大原は笑う。
だが——
春彦は笑っていなかった。
カバンの中のノートの存在を、強く意識する。
(……試せる)
ほんの一瞬。
その思考が、頭をよぎる。
そして——
春彦の口元が、ゆっくりと歪んだ。




