2.願い事ノートと満塁ホームラン
21:00。
夜の空気は少し湿っていて、街灯の光がぼんやりと滲んでいた。
男は足早に家へと戻る。
ポケットの中にある“それ”の存在を、何度も無意識に確かめながら。
玄関のドアを開ける。
「……ただいま」
靴を脱ぎながら言うと、すぐにリビングから声が飛んできた。
「春彦、おかえり!」
母の声だ。
テレビの音がやけに大きい。
何かに夢中になっている時の音量だった。
リビングに入ると、案の定——
母はテレビにかじりつくようにして座っていた。
画面には、プロ野球中継。
阪神対巨人。
延長12回裏、ツーアウト満塁。
スコアは7-3で巨人リード。
「ちょっとこれ見て!すごい場面よ!」
母は振り向きもせずに言う。
「満塁よ、満塁!ここでホームラン出たら同点よ!」
画面にはバッターボックスに立つ森下。
マウンドには大勢。
スタジアムの空気が、テレビ越しにも伝わってくる。
「頼む……頼むから打ってくれ……!」
母は手を組み、祈るように呟く。
「もう……一生に一度のお願いだから……!」
その言葉に——
春彦の動きが止まった。
「……一生に一度」
小さく呟く。
そして、ゆっくりとポケットに手を入れる。
ノートを取り出す。
あの、真っさらなノート。
表紙には——“願い事を書きましょう”。
春彦は母に近づく。
「……母さん」
「なに!?今それどころじゃないわよ!」
「これに書けば……その通りになる」
一瞬、母が振り向く。
そして——
「は?」
呆れた顔。
「何バカなこと言ってんの?」
すぐにテレビへ視線を戻す。
「そんなのいいから、静かにして!」
だが春彦は引かない。
「騙されたと思ってさ、一回書いてみてよ」
「はあ?」
その時、テレビの中で森下が一度打席を外した。
間。
球場のざわめき。
母は舌打ちするように息を吐く。
「……もう、ほんとにバカバカしいわ」
そう言いながらも——
ちら、とノートを見る。
「一回だけよ?」
ペンを取る。
半信半疑のまま、ページに書く。
——森下、満塁ホームラン打て。
「じゃあ、これでいいでしょ」
雑にペンを置く。
その直後——
森下が打席に戻る。
スタンドのざわめき。
ピッチャー・大勢がセットに入る。
春彦の心臓が、どくんと鳴る。
(……まさか)
投球。
次の瞬間——
森下のバットが振り抜かれる。
鋭い音。
白球が一直線に飛んでいく。
「……え?」
レフト方向。
ぐんぐん伸びる。
スタンドが近づく。
「いけ……いけ……!」
母が立ち上がる。
そして——
入った。
レフトスタンドに、吸い込まれるように。
「入ったぁぁぁぁぁぁ!!!」
アナウンサーが絶叫する。
「満塁ホームラン!!奇跡の一発!!阪神、同点!!」
球場が爆発する。
歓声、歓声、歓声。
画面が揺れるほどの熱狂。
母は——
「うわああああああああ!!!!!」
狂ったように叫びながら飛び跳ねていた。
「やったぁぁぁ!!森下ぁぁぁ!!!!!」
春彦は、動けなかった。
背筋に、冷たいものが走る。
(……ウソだろ)
画面の中では、選手たちがホームベースで抱き合っている。
12回裏ツーアウトからの、奇跡の同点劇。
「見た!?見た!?今の!?」
母が振り返る。
目を輝かせている。
「信じられない!奇跡やでほんま!」
春彦は、ゆっくりと口を開いた。
「……このノート、すごいだろ?」
母は一瞬きょとんとして——
すぐに笑った。
「いやいや、たまたまだって!」
「そんなわけ……」
「偶然よ偶然!」
軽くあしらう。
だが、その声はどこか浮ついていた。
テレビでは、次のバッターが紹介される。
「佐藤や……!」
母が再び画面に食いつく。
「ここでホームラン出たら……逆転サヨナラよ……!」
両手を組み、祈る。
「頼む……頼むから……ホームラン……!」
その横で——
春彦の目が細くなる。
(……試せる)
頭の中で、考えが組み立てられる。
(もし……もう一回書いて……叶わなかったら)
(やっぱり……一回だけ……)
春彦はノートを差し出す。
「……母さん、もう一回書いてみてよ」
「え?」
「佐藤、ホームランって」
「さっきのがあるしなぁ……」
さっきより、明らかに乗り気だ。
ペンを取る。
少し笑いながら書く。
——佐藤、サヨナラホームラン打て。
「よし……!」
テレビに釘付けになる母。
春彦も、息を詰める。
(……ここだ)
(ここで出なければ——)
ピッチャー・大勢が振りかぶる。
全身全霊の一球。
佐藤、フルスイング——
「……っ!」
空振り。
「ストライク!バッターアウト!!」
試合終了。
スタジアムの空気が一変する。
歓声がため息に変わる。
母は、がくっと肩を落とした。
「はああああ……」
深いため息。
「なんなのよ……」
そして、ノートを指差す。
「これ、あかんやん」
春彦は、少しだけ残念そうな顔を作る。
「……そうだね」
だが——
その目の奥には、はっきりとした光が宿っていた。
(……やっぱりだ)
(最初の一回だけ……)
(書いたことが、本当になる)
確信。
ゆっくりとノートを閉じる。
「……ちょっと部屋行くわ」
「はいはい」
母はもうテレビに戻っている。
春彦はノートを手に、自分の部屋へ向かう。
ドアを閉める。
静寂。
ベッドに腰を下ろす。
ノートを膝の上に置く。
指先で、表紙をなぞる。
——“願い事を書きましょう”
「……一回だけ」
小さく呟く。
(何を書く?)
(何でも……叶うのか?)
頭の中に、様々な願いが浮かんでは消える。
金。
成功。
過去。
未来。
そして——
「……」
春彦の呼吸が、わずかに深くなる。
ノートを見つめる。
白いページが、静かに待っている。
(……何を書く?)
思考が、ゆっくりと、そして確実に——深い場所へ沈んでいく。




