1.願い事ノートと雨の夜
神戸の夜は、ゆっくりと深くなっていく。
港を見下ろすレストランの窓際席。
ガラスの向こうには、黒く沈んだ海と、その上に浮かぶ船の光。揺れる灯りが、まるで呼吸しているみたいに瞬いている。
——のぞみ、21歳。
神戸で生まれ育った大学三年生。
少し照れ屋で、それでも一度決めた想いは揺るがない。
——ゆう、20歳。
同じく神戸の大学に通う二年生。
強引さはないが、静かに寄り添うような優しさを持っている。
二人は、高校時代に出会った。
のぞみが高三、ゆうが高二。
あの頃から続く関係は、三年の時間をかけて、確かに深まっていた。
そして今夜。
土曜日、19時。
二週間ぶりのデート。
料理はすでに食べ終えていた。
「……美味しかったね」
のぞみがグラスを指先でなぞりながら言う。
「うん」
ゆうは短く答える。
それ以上、言葉は続かない。
でも、それでいいと思える空気。
帰ろうと思えば帰れる。
けれど、その一言を言った瞬間に、この時間が終わる気がして——
どちらも、言い出せない。
「……」
ふと、のぞみの視線がテーブルの端に落ちる。
「あれ……?」
そこに、一冊のノートがあった。
真新しい。
誰にも使われていない白さ。
表紙には、やわらかな文字。
——“願い事を書きましょう”
「こんなのあったっけ……?」
「気づかなかったな」
ゆうも覗き込む。
「店のサービスかな」
のぞみは、そっと指で表紙をなぞる。
少しひんやりとした紙の感触。
「……何書く?」
ゆうが軽く言う。
「え、そんな…恥ずかしくて書けないよ」
即答だった。
「じゃあさ、書かなくていいから教えてよ」
「ええ……」
のぞみは困ったように笑う。
視線を泳がせて、でも観念したように小さく息を吐いた。
「……ゆう君が」
「うん」
「ゆう君が大好きで……」
声が小さくなる。
「……ずっと、一緒にいたい、って……」
言い終えて、顔を伏せる。
ゆうは一瞬黙った。
それから、ゆっくりと息を吐く。
そして、柔らかく笑う。
「嬉しい」
「……なにそれ」
「ほんとに」
少しだけ照れながら続ける。
「でも、それをノートに書くのは……ちょっと恥ずかしいな」
「でしょ!?」
のぞみが顔を上げる。
「絶対無理だよ!」
二人は顔を見合わせて笑う。
その時——
窓に、ぽつ、と水滴が当たった。
「あ……雨」
外を見ると、細かな雨が降り始めている。
夜景が、にじむ。
「結構降りそうだね」
「うん……」
のぞみは少しだけ残念そうに呟く。
そして、ノートに目を落とす。
「……じゃあ、これ書こうかな」
「何?」
「雨、止んでほしいって」
「現実的だね」
「でしょ?」
くすっと笑って、ペンを走らせる。
——雨が止みますように。
書き終えて、ペンを置く。
その仕草を見て、ゆうがぽつりと言う。
「……のぞみさん可愛いな」
「ちょっとやめてよ」
のぞみは頬を赤くして視線を逸らす。
——その直後だった。
雨音が、消えた。
「……え?」
二人同時に顔を上げる。
窓の外。
さっきまで降っていた雨が、嘘みたいに止んでいた。
街の光が、くっきりと戻る。
「……止んだ?」
「そんな……」
二人は顔を見合わせる。
「……きつねに摘まれたみたい」
「たまたまだよ」
「……だよね」
納得しきれないまま、笑う。
のぞみは少し考えてから、もう一度ペンを取った。
「……じゃあさ」
さらさらと書く。
——雨が降りますように。
そして、窓の外をじっと見る。
ゆうも、無言で同じ方向を見つめる。
数秒。
十秒。
——何も起きない。
空はそのまま、静かに晴れている。
「……ほらね」
のぞみが肩をすくめる。
「うん、やっぱり偶然だよ」
ゆうも苦笑する。
二人は顔を見合わせて、小さく笑った。
——その様子を、少し離れた場所から見ている視線があった。
店員の若い男。
トレイを持ったまま、何気ないふりをしているが、その目は確かにテーブルを追っていた。
「……」
視線だけが、わずかに鋭い。
のぞみが言う。
「せっかくだし、ゆう君も何か書けば?」
「え?」
「今の、ちょっと面白かったし」
ゆうは少し迷ってから、ペンを取る。
「じゃあ……」
ページに書き込む。
——世界が平和になりますように。
のぞみは吹き出した。
「あはは、何それ?」
「いや……」
ゆうは照れ笑いする。
「さっきのは恥ずかしかったから」
「えー、私たちのこと書けばいいのに」
「それは恥ずかしくて無理」
「ほんとに?」
「ほんとに」
また笑う。
そしてゆうは、もう一度ペンを動かした。
「……じゃあもう一個」
——雨が降りますように。
書き終えて、二人で外を見る。
だが——
何も起きない。
夜は変わらず静かだった。
「……やっぱりね」
「うん」
さっきの出来事が、急に現実味を失っていく。
「じゃあ、帰ろっか」
「うん」
二人は席を立つ。
会計を済ませ、店を出る。
濡れた地面が、街の光を反射している。
二人の背中が、夜の中へ溶けていく。
——その数分後。
店内のテレビから、突然ニュースが流れる。
「速報です。ロシアがウクライナからの全面撤退を発表しました——」
一瞬の静寂。
それから——
「え?」「うそだろ……」「マジで?」
ざわざわと、店内が揺れる。
空気が一変する。
——そのテーブルへ、さっきの店員が近づいてくる。
無言で皿を下げる。
そして、ノートに目を落とす。
じっと、見つめる。
ページをめくる。
——雨が止みますように。
——雨が降りますように。
——世界が平和になりますように。
——雨が降りますように。
男の喉が、わずかに動く。
「……」
ノートを閉じる。
そのまま、自然な動作で——懐へ滑り込ませた。
何事もなかったかのように、片付けを続ける。
裏へ運ぶ。
洗い場に皿を置く。
だが、ノートは手放さない。
そのままマネージャーの元へ向かう。
「すみません……ちょっと体調が悪くて……」
「大丈夫か?顔色悪いぞ」
「少し休めば……」
「今日はもう上がれ」
「……ありがとうございます」
更衣室。
急いで制服を脱ぐ。
私服に着替える。
ポケットに手を入れる。
——ある。
ノートの感触。
確かに、そこにある。
男は小さく息を吐いた。
裏口から外へ出る。
夜の空気が、ひやりと頬を撫でる。
足早に歩き出す。
——思考が、加速する。
(女が……雨が止むように書いたら、止んだ)
(でも、次に書いた“雨が降る”は叶わなかった)
足が速くなる。
(男が……世界平和って書いたら……戦争が終わった)
心臓の鼓動が、わずかに強くなる。
(うそだろ……そんなの……)
だが、頭のどこかが冷静に整理する。
(でも、その後の“雨が降る”は叶わなかった)
歩道の水たまりを踏み、わずかに水が跳ねる。
(……もしかして)
足が止まりかけて、また動く。
(あのノート……一度だけ……願いが叶う……?)
「……まさか」
思わず口に出る。
だが、すぐに首を振る。
(そんなバカな…偶然だろ……)
それでも——
あの瞬間を、思い出す。
雨が止んだタイミング。
ニュースの内容。
(……偶然で片付けるには……出来すぎてる)
男の口元が、わずかに歪む。
(もし……本当に……一度だけでも……願いが叶うなら——)
足取りがさらに速くなる。
夜の街を、ほとんど駆けるように進む。
家へ。
ただ一直線に。
ポケットの中のノートが、やけに重く感じられた。




