46.告白の瞬間
すみれ薬局前 20:28
夜風が静かに吹いていた。
駅前の人通りも少しずつ減り始めている。
街灯の明かりが歩道を照らし、その光の中で春彦は立ち尽くしていた。
心臓は限界だった。
耳の奥で自分の鼓動が鳴り続けている。
ドクン。
ドクン。
彩子は目の前にいる。
正美は少し離れた場所から二人を見守っている。
春彦は震える手で紙袋を握った。
そして――
慎重に中へ手を入れる。
取り出したのは小さな指輪ケースだった。
彩子の視線がそこへ向く。
正美も思わず息を呑む。
春彦はケースを両手で持つ。
まるで壊れ物を扱うように。
そしてゆっくりと開いた。
パカッ――
ケースの中でプラチナリングが街灯の光を受ける。
キラリ。
小さく輝いた。
正美の目が大きくなる。
(う、ウソでしょ……)
(まさか春彦くん今から……)
春彦は震える指でリングを持ち上げた。
そして裏側を見せる。
「こ、これ……」
喉が乾く。
口の中がカラカラだった。
「H.Aって彫ってあるんす」
彩子がリングを見る。
春彦は続ける。
「こ、このAってのは彩子さんのAなんです」
沈黙。
夜の空気だけが流れる。
「で、Hは……」
春彦が言いかけた時だった。
彩子が小さく呟く。
「春彦のH……」
春彦の動きが止まった。
目を見開く。
彩子を見る。
今まで一度も呼ばれたことのない名前。
それも本人の口から。
「オ、オレの名前……」
思わず声が漏れる。
「知っててくれたんすか……?」
彩子は少しだけ目を伏せた。
「はい……」
薬剤師だから処方箋を見る。
お薬手帳も見る。
名前を知る機会はあった。
でも。
知っているだけではない。
覚えていた。
ずっと。
春彦の胸が熱くなる。
「このリングを買うために……」
春彦は言う。
「正美さんに来てもらってたんです」
正美は何も言わない。
空気を読んで黙っている。
今は春彦の時間だった。
「もう一個あって……」
春彦はもう一つのリングを見せる。
「こっちはA.Hって彫ってるんすけど……」
説明はいらなかった。
その意味は誰にでも分かる。
彩子も見つめている。
春彦は深呼吸した。
そして。
ずっと胸の中にしまっていた言葉を吐き出す。
「オ、オレ……」
声が震える。
「彩子さんがずっと好きでした」
彩子の目がわずかに揺れた。
春彦は続ける。
「い、いつも彩子さんのことばっか考えてて……」
「今働いてるんだろうかとか……」
「何してるんだろうとか……」
「元気かなとか……」
言葉がまとまらない。
でも止めたくなかった。
「オレ……」
「彩子さんが本当に好きで……」
「す、すいません……上手く言えなくて……」
正美は胸の前で両手を握っていた。
(頑張れ……)
(頑張れ春彦くん……)
心の中で応援する。
彩子は黙ったまま聞いている。
春彦は最後の勇気を振り絞る。
「あ、彩子さんが良かったら……」
「良かったらですけど……」
また言葉が詰まる。
「す、すいません……」
「キモいとか思わないで欲しいんすけど……」
心拍数は限界だった。
逃げ出したい。
でも逃げない。
今日だけは。
春彦は頭を下げた。
そして叫ぶように言った。
「オ、オレと付き合って……付き合ってください!」
静寂。
街の音が遠くなる。
誰も喋らない。
春彦は頭を下げたままだった。
数秒。
数十秒にも感じられる時間。
その時。
彩子が口を開く。
「私……なんかでいいんですか……?」
春彦の思考が止まった。
え?
今何て言った?
ゆっくり顔を上げる。
彩子と目が合う。
「そ、それって……」
春彦は震える声で言う。
「良いって事なんすか……?」
「付き合ってもらえるって事なんすか……?」
彩子は少しだけ目を逸らした。
そして小さく頷く。
「私で……いいんなら……」
再び静寂。
春彦は動けなかった。
頭が真っ白になる。
全身の血が一気に巡る。
夢じゃないのか。
本当に?
本当に?
「し、信じられないっす……」
春彦の声が震える。
「夢みたいっす……」
彩子は何も言わない。
ただ恥ずかしそうに視線を下げている。
「あ、ありがとうございます……」
「マ、マジなんすね……」
まだ信じられない。
その様子を見ていた正美が耐えられなくなった。
「は、春彦くん!」
涙声になる。
「指輪!」
春彦はハッとした。
「あっ!」
慌ててケースを見る。
「ぺ、ペアリングなんす」
彩子を見る。
「い、いやじゃなかったら……」
「してもらって良いっすか……?」
正美が小声でツッコむ。
「あんたがつけてあげるのよ」
「そ、そうか!」
春彦は真っ赤になる。
彩子も少し照れている。
春彦はそっと彩子の手を取った。
初めて触れる手。
白くて。
細くて。
柔らかい。
春彦の心臓がまた跳ねる。
慎重に。
本当に慎重に。
指輪を指へ通す。
そして――
ぴたり。
綺麗にはまった。
サイズはまるで測ったかのようにぴったりだった。
「きつくない?」
正美が聞く。
彩子は指を曲げたり伸ばしたりする。
そして小さく頷く。
「はい……」
春彦の目に涙が浮かぶ。
正美の目にも。
「ほ、ほら!」
正美が言う。
「あんたもするのよ!」
春彦は慌てて自分のリングを取り出す。
震える手で指にはめる。
同じデザイン。
同じ輝き。
同じ刻印。
正美は涙をこぼしながら笑った。
「に、似合ってるわよ二人……」
春彦は涙を拭う。
何度も。
何度も。
彩子を見る。
マスクのせいで口元は見えない。
でも。
目元が違った。
いつもの鋭さが少し和らいでいる。
優しい。
そんな表情だった。
「あ、あんた何か喋りなさいよ」
正美が言う。
春彦は笑いながら涙を拭く。
「ま、まだ信じられないっす……」
正美は彩子を見る。
「この子ね」
鼻をすすりながら言う。
「ずっと私に彩子ちゃんのこと相談してたの」
「それぐらい彩子ちゃんが好きだったのよ」
ぽろぽろ涙が落ちる。
「ちょ、ちょっと正美さん!」
春彦が慌てる。
彩子は少しだけ俯いた。
そして――
照れたように笑った。
春彦は息を呑む。
初めて見た。
本当に初めて。
愛想が悪くて。
いつも無表情で。
何を考えているか分からなかった彩子。
その彩子が今、
確かに笑った。
春彦はその光景を目に焼き付ける。
どうか夢じゃありませんように。
そう願いながら、
目の前の彩子から一瞬たりとも目を離せなかった。




