最終回. ノートのいらない恋
電車の中 21:07
夜の電車が静かにレールの上を滑っていた。
ガタン、ゴトン――。
窓の外には流れる街の灯り。
昼間からずっと張り詰めていた一日が終わり、車内には仕事帰りの人たちがまばらに座っている。
春彦は座席に腰掛け、膝の上に小さな紙袋を乗せていた。
つい数十分前まで、夢にも思わなかった出来事が起きていた。
彩子に告白し、OKをもらった。
何度思い返しても現実感がない。
隣に座る正美は、そんな春彦の顔を見てニヤニヤしていた。
「あんた良かったじゃん。私、告白が始まるなんて思わなかったからびっくりして」
「はい……」
春彦は小さく頷く。
まだ頭がふわふわしている。
「でさ」
正美はミネラルウォータのペットボトルをくるくる回しながら言った。
「あれでしょ? あのノート使わなかったんじゃないの?」
春彦は少し笑った。
「そうっすね。ノートは使いませんでした」
「なのにすごいじゃん。よかったじゃん」
「はい……」
窓に映る自分の顔を見る。
どこにでもいる大学生。
特別格好いいわけでもない。
話が上手いわけでもない。
告白だって途中で何度も詰まった。
それでも。
彩子は受け入れてくれた。
春彦は静かに言った。
「もしノート使って彩子さんと付き合えることになったとしても……」
「うん」
「その時は嬉しいかもしれないっすけど……なんか、わだかまり残ると思うんすよね」
正美は首を傾げる。
「あー、彩子ちゃんと付き合えてるのはノート使ったからで、ノートなかったら付き合えてなかったって思うってこと?」
「そうっす」
春彦は頷いた。
「オレ、多分ずっと考えると思うんす」
車窓に流れる灯りを見る。
「本当にオレのこと好きだったのか、それともノートのせいだったのかって」
正美はふっと笑った。
「でもさ」
「はい」
「4時間超えても付き合ってるんなら本当に好きになってるってことだったじゃん」
「そうっすけど……」
春彦は少し考える。
「告白だけはガチで行かないとって思ったんす」
正美はしばらく春彦を見つめた。
それから嬉しそうに笑う。
「そうなんだ」
「はい」
「えらいわあんた」
春彦は照れ臭そうに目を逸らした。
「でも良かったよ」
正美は続ける。
「あんたあの告白。何度も詰まりながらだったけど、あんたらしい不器用さが出ててさ。そういうところが彩子ちゃんに響いたんじゃない?」
春彦は苦笑した。
「そうっすかね?」
「そうよ絶対」
正美は即答する。
「だって途中『すみません』とか言ってんだよ?」
「うっ……」
「聞いてるこっちがハラハラしたわ」
「す、すいません……」
「でもね」
正美は優しい声になる。
「上手いこと言おうとしてる感じが全然なかったの」
春彦は顔を上げる。
「ただ必死だった」
正美は笑う。
「だから良かったんじゃない?」
春彦は黙った。
そして小さく呟く。
「そうだったら嬉しいっす」
電車が駅を通過する。
車内アナウンスが流れた。
少し沈黙が続いた後。
正美がふと思い出したように聞く。
「そういえばさ」
「はい?」
「あんた今まで女の子に告白したことあったの?」
「いえ」
春彦は首を振った。
「初めてっす」
「やっぱり」
正美は笑った。
「なんとなくそんな気がした」
「そんなにバレバレだったっすか」
「バレバレ」
即答だった。
「いや良かったじゃない本当に」
正美は窓の外を見る。
「私も人の告白に立ち会うの初めてだったわ」
少し笑う。
「良いもの見させてもらった」
春彦は少し照れた。
そして頭を下げる。
「ま、正美さんのおかげっす」
「え?」
「ありがとうございました」
正美は目を丸くした。
「何言ってんの」
肩をすくめる。
「私何もしてないわよ」
「そんなことないっす」
春彦は首を振った。
「横で立ってただけじゃん」
「違うっす」
春彦は真剣な顔になる。
「正美さんが今日説明しに行けって言ってくれたからっす」
正美は黙って聞いている。
「それに」
春彦は少し笑う。
「正美さんがそばにいてくれたから、勇気出せたんす」
正美の表情が柔らかくなった。
「そう?」
「はい」
しばらく沈黙。
そして正美は興味津々の顔になる。
「でもさ」
「はい」
「なんで告白しようと思ったの?」
春彦は少し考えた。
そして答える。
「あ、彩子さん」
「うん」
「もう疑ってないって言ったじゃないっすか」
「あー」
正美は頷く。
「言ってた言ってた」
春彦は指輪ケースを見つめる。
「オレ」
ゆっくりと言う。
「正美さんと腕組んでるとこ見られて」
「うん」
「別に何とも思ってなかったんなら、『もう疑ってない』なんて言わないと思ったんすよ」
正美は納得したように頷いた。
「そうね」
「はい」
「もう疑ってないってのは、ずっと疑ってたってことだからね」
春彦の胸が少し熱くなる。
「それで」
「うん」
「彩子さん、オレのこと気にかけてたんだって思って」
正美は笑った。
「それで今しかないって思ったのね。やるじゃない」
春彦も少し笑う。
「正美さん言ってたじゃないっすか」
「何を?」
「順番があるって」
正美は「ああ」と声を漏らす。
「気にかけてない相手から告白されてもOKされないって」
「そうそう」
正美は指をさす。
「言ったわね」
「オレ覚えてたんす」
正美は少し嬉しそうに笑った。
「ちゃんと聞いてたのね」
春彦は照れ臭そうに笑う。
そして左手を見る。
薬局の前ではめたペアリング。
街灯の下で光っていた指輪。
春彦はそっと外した。
ケースを開き、中にしまう。
カチッ。
小さな音がした。
正美が不思議そうな顔をする。
「どうしてしないの?」
「え?」
「ペアリング」
春彦はケースを見つめた。
「なんか……」
言葉を探す。
「オレには指輪なんて分不相応っていうか……」
正美は吹き出した。
「確かに」
「え?」
「あんたに指輪は似合ってないわ」
「ひどいっす」
「ふふふ」
正美は笑う。
「いいじゃない」
そして優しい声で言った。
「彩子ちゃん射止められたんだし」
「はい」
「大事にしまっときなさい」
春彦はケースをジュエリーオカモトの紙袋に入れる。
「はい」
その返事はどこか誇らしかった。
電車がまた揺れる。
しばらくして。
正美が思い出したように言った。
「あ」
「はい?」
「あんた彩子ちゃんに連絡しないと」
正美が顔を向ける。
春彦は固まったまま言った。
「オレ、彩子さんとLINE交換してなかったっすね……」
正美も一瞬止まった。
そして。
「あー……」
と天井を見上げた。
「そういえばそうね」
「っすよね……」
「急転直下だったからね」
正美は苦笑した。
「告白して、OKもらって、指輪はめて、私泣いてたし」
「夜も遅かったからそんな余裕なかったっすね……」
春彦も苦笑する。
改めて考えると信じられない流れだった。
連絡先交換より先にペアリングを交換している。
順番が滅茶苦茶だ。
すると正美が思い出したように言った。
「そういえばさ」
「はい?」
「彩子ちゃん、薬局の鍵をカバンに入れてたじゃない?」
春彦はハッとした。
確かに見た。
閉店後。
彩子は入口の鍵を閉め、その鍵をカバンへしまっていた。
「だから明日朝イチで来るんじゃない?」
「……あ」
春彦も思い出す。
「そうっすね」
「絶対来るわよ」
正美は断言した。
「あんた明日朝イチで行きなさい。それで連絡先交換するのよ」
春彦は少し不安そうな顔になる。
「向こうも待ってますかね……?」
正美は呆れたように笑った。
「そりゃ待ってるわよ」
「そうっすかね……」
「待ってるに決まってるじゃない」
正美は肩を叩く。
「あんたたちもう恋人同士なんだからさ」
恋人同士。
その言葉を聞くたびに、まだ現実感がない。
春彦は窓に映る自分を見る。
本当に自分が?
本当に彩子と?
そんな気持ちだった。
少し黙った後。
春彦はぽつりと言った。
「オレ、不安なんす」
「何が?」
「明日彩子さんに会いに行って……」
春彦は視線を落とす。
「愛想悪く『は?』みたいな顔されたらどうしようって」
正美は吹き出した。
「もー」
額を押さえる。
「そんなわけないじゃん」
「でも……」
「でもじゃない」
正美はきっぱり言う。
「絶対明日に行かないとダメよ」
「はい」
「日を開けたら彩子ちゃんだって『なんだったのあれ?』ってなるかもしれないんだから」
「は、はい」
春彦は真面目に頷く。
「もちろんっす」
「よろしい」
正美は満足そうに頷いた。
それから急に思い出したようにニヤリとする。
「でもさ」
「はい?」
「あんたのあのノート」
春彦は目を瞬く。
「ノートっすか?」
「何でも一回叶うやつ」
正美は笑う。
「結局使わなかったじゃん?」
「そうっすね」
「まだ使えるじゃん?」
正美は肘でつついた。
「どう使うつもり?」
からかうような口調だった。
春彦は少し考えたあと、カバンを開けた。
そして一冊のノートを取り出す。
ーー願い事を書きましょう
一度だけ願いの叶う不思議なノート。
春彦はゆっくりページをめくった。
パラ……
パラ……
そして。
「あ」
春彦が呟く。
「ん?」
正美も覗き込む。
白紙のページ。
そのはずだった。
しかし。
すっかり減っていて、もう残りのページはなかった。
春彦は少し笑う。
「もう書けないっすね……」
「え?」
正美はノートを受け取る。
「ウソ?」
表紙をめくる。
「……あ、本当だ」
最後のページまで確認する。
白紙は一枚もない。
正美は不思議そうに眉を上げた。
春彦は肩をすくめる。
「別にいいんす」
「いいの?」
「はい」
春彦は窓の外を見た。
そして静かに笑う。
「今はもう叶えたいことなんかないっす」
正美も思わず笑った。
「そうよねー」
うんうんと頷く。
「あんた一番叶えたいこと叶えちゃったんだからさ」
春彦は少し照れ臭そうに頭を掻いた。
しばらくして。
正美がまた恋バナモードになる。
「そういえば」
「はい?」
「あんた女の子と付き合うの初めてなんでしょ?」
「はい」
春彦は頷く。
「デートもしたことなくて」
「へえ」
正美は面白そうに身を乗り出す。
「どうすんの?」
「え?」
「初デート」
春彦は固まった。
彩子とデート。
その言葉だけで胸がざわつく。
これまでは布団の中の妄想だった。
薬局の前で会う。
一緒に歩く。
手を繋ぐ。
そういうもの全部が。
今度は現実になる。
春彦は思わず言った。
「オ、オレ大丈夫っすかね……?」
正美は目を丸くした。
「何あんた」
「はい」
「自信ないの?」
「そりゃもう……」
正美は笑った。
「良いのよ別に」
「え?」
「トーク力なんかなくても」
春彦は聞き返す。
「そうなんすか?」
「そうよ」
正美は力強く言う。
「ありのままのあんたでいいの」
春彦は黙って聞く。
「下手に気を使って面白いこと言おうとか思わなくていい」
「はい」
「そんなの寒くなるだけなんだから」
春彦は苦笑した。
確かに自分には向いていない。
正美はさらに続ける。
「さっきの告白みたいにさ」
「はい」
「好きです」
「……」
「好きです」
「……」
「好きです」
「……」
「って言い続けるのよ」
春彦は顔を赤くする。
「す、好きですばっかりっすか」
「そうよ」
正美は笑う。
「好きなんでしょ?」
春彦は観念したように頷いた。
「は、はい……」
「はいってあんた!」
バシッ。
肩を叩かれる。
「いてっ」
「それでいいのよ」
正美は笑う。
「デートの行き先なんかどこだっていい」
「はい」
「いいって言っても気持ち悪いとこはダメよ?」
「はい」
「手握って好きですって言い続けるの」
春彦は恥ずかしそうに俯く。
「そ、それでいいんすかね……」
「いいの」
正美は即答した。
「女の子は好きだって言われると幸せなんだから」
春彦は少し考えた。
そして聞く。
「正美さんはそうなんすか?」
正美は即答だった。
「そりゃそうよ」
そしてニヤリと笑う。
「だからこれから私があんたに毎週指南してあげるからさ」
「ま、マジっすか」
「恋愛講座よ」
春彦は頭を下げた。
「あ、ありがとうございます……」
その時。
車内アナウンスが流れた。
次の停車駅。
正美が降りる駅だった。
「あ」
正美が立ち上がる。
「もう私降りないと」
電車がゆっくりホームへ滑り込む。
減速する音。
開くドア。
正美は立ち上がり、振り返った。
「明日朝イチ」
春彦を見る。
「絶対にすみれ薬局行くのよ」
「は、はい」
春彦も立ち上がる。
「もちろんっす」
「よろしい」
正美は笑う。
そしてホームへ降りる。
閉まり始めるドア。
「じゃ!」
正美が言った。
「明日のバイトで聞かせてね!」
「はい!」
ドアが閉まる。
電車が動き出す。
ホームの正美が大きく手を振っている。
春彦は軽く会釈した。
やがてホームが遠ざかる。
窓の外の景色が再び流れ始めた。
春彦は静かに座り直す。
そして膝に置いたジュエリーオカモトの紙袋を抱き寄せた。
胸の中に浮かぶのは一人の女性。
短い前髪。
いつもマスク姿。
ぶっきらぼうで愛想が悪い。
それなのに。
どうしようもなく好きになった人。
彩子。
明日になればまた会える。
その事実だけで胸がいっぱいになる。
電車は夜の街を走り続ける。
春彦を乗せて。
新しい明日へ向かって。
終わり




