45. 夜風の中の決意
すみれ薬局前 20:18
夜の冷たい空気が駅前を流れていた。
閉店したすみれ薬局の看板だけが静かに残り、周囲には仕事帰りの人々が足早に通り過ぎていく。
そんな中。
彩子はマスク越しに小さく息を吐いた。
そして、まるで重たい扉を開けるように口を開く。
「だ、大丈夫です」
少し間を置く。
「分かりましたから」
春彦は一瞬何を言われたのか理解できなかった。
次の瞬間――
目を見開く。
「ほ、ホントっすか?」
思わず一歩前に出る。
「本当に信じてもらえるんすか?」
彩子は少し視線を泳がせた。
そして小さく頷く。
「は、はい……」
相変わらずぶっきらぼうな声。
だがそこには拒絶はなかった。
「もう疑ってなんかいませんから」
その言葉を聞いた瞬間。
春彦の全身から力が抜けた。
肩が落ちる。
張り詰めていた神経が一気に緩む。
「よ、良かったっす……」
本当に安心した声だった。
何時間も胸を締め付けていた不安が溶けていく。
彩子に嫌われたかもしれない。
もう終わったかもしれない。
そう思っていた。
だからこそ。
今の一言は春彦にとって救いだった。
その様子を見ていた正美も耐えられなくなった。
「良かったあ!」
柱の陰から飛び出してくる。
「もうどうなるかと思った!」
「ま、正美さん!」
春彦が慌てる。
彩子は突然現れた正美に驚いていた。
目をぱちぱちさせる。
正美はそんなことお構いなしだ。
「ごめんね彩子ちゃん!」
愛想よく笑う。
「この子の言う通りなの!」
「私、この子と同じバイト先だけど、全然彼女とかじゃないから!」
「ちょっと正美さん!」
春彦が赤くなる。
正美は構わない。
「私さ、もし彩子ちゃんに信じてもらえないんなら途中で出て行こうと思ってたんだ」
「でも良かったじゃない!」
「信じてくれて!」
勢いよく話す正美。
彩子は完全に圧倒されていた。
目だけが正美を追っている。
春彦は頭を抱えたくなる。
「もう……正美さんって……」
正美はニヤニヤしている。
そしてふと気付いたように言った。
「でもさ?」
彩子を見る。
「今、もう疑ってないって言ったでしょ?」
彩子の肩がピクリと動く。
「ってことはさ」
正美は悪戯っぽく笑った。
「やっぱりデパートの時は彼女だと思って疑ってたんだ?」
「……」
彩子は答えない。
だが否定もしない。
春彦もハッとした。
確かにそうだ。
彩子はさっき、
“もう疑っていません”
と言った。
つまり――
以前は疑っていた。
春彦に彼女がいると。
そしてそれを気にしていた。
そこまで考えた瞬間。
春彦の胸が大きく鳴った。
ドクン。
まさか。
そんなことって。
彩子は視線を逸らしている。
マスクで表情は見えない。
だが耳が少し赤いような気もした。
正美は満足そうに頷く。
「とにかく良かったじゃない」
両手をパンと叩く。
「ね?」
「もう寒くなってきたしさ」
「風邪ひかないうちにみんなで帰ろう?」
「彩子ちゃんも電車でしょ?」
いつものように場を仕切る。
その空気に流されそうになった。
その時だった。
「ちょっと待ってください」
春彦の声。
正美が振り向く。
彩子も春彦を見る。
「ん?」
「どうしたの?」
春彦の喉が鳴る。
心臓が暴れている。
だがもう逃げたくなかった。
今日一日。
どれだけ悩んだか。
どれだけ迷ったか。
どれだけ彩子のことを考えたか。
春彦は右手に持った紙袋を見た。
白い紙袋。
ジュエリーオカモトのロゴ。
その中には――
彩子のために買ったペアリング。
そして自分のためのペアリング。
預金をほとんど使い切って買ったものだ。
春彦はゆっくり言った。
「今日……」
声が震える。
「正美さんにデパートついて来てもらったのは……」
紙袋を少し持ち上げる。
「これを買うためだったんす」
正美の目が見開かれる。
心臓が止まりそうになる。
(え……)
(ちょっと待って)
(まさか……)
正美は息を呑んだ。
は、春彦くん……まさか……
言葉にならない。
彩子も紙袋を見ていた。
視線がそこに止まる。
そしてゆっくり春彦を見る。
春彦の鼓動は限界だった。
ドクン。
ドクン。
頭の中で何度も繰り返した。
今しかない。
今しかない。
彩子はオレに彼女がいると思っていた。
そしてそれを疑っていた。
もし少しでも気にしてくれていたのなら。
もし少しでも可能性があるのなら。
言うなら今しかない。
春彦は拳を握る。
彩子は静かに春彦を見ている。
正美は二人を見比べる。
冷たい夜風が吹いた。
誰も喋らない。
駅前の雑踏だけが遠くに聞こえる。
春彦と彩子の視線が重なる。
その間にあるのは、
ジュエリーオカモトの紙袋だった。
そして――
春彦は決意したように息を吸い込んだ。




