44. 静寂の対峙
20:12
夜の空気は冷たかった。
閉店したすみれ薬局。
西元山駅エレベーターの前。
照明の落ちた店内を背にして、春彦は彩子の前に立っていた。
数時間前から何度も頭の中で練習したはずなのに。
いざ本人を前にすると、言葉が全部どこかへ飛んでいってしまう。
彩子はマスク姿のまま立ち止まり、少しだけ目を見開いていた。
短い前髪。
鋭い目つき。
昼間デパートで見た時と同じ私服姿。
春彦の胸が激しく上下する。
ドクン。
ドクン。
心臓の音が自分でも聞こえる気がした。
「オ、オレ……」
声が裏返る。
そこで止まる。
その先が出てこない。
遠くから見ていた正美が思わず顔をしかめた。
(止まった!)
(なんで止まるのよ春彦くん!)
彩子の隣にいた薬剤師が、不思議そうに二人を見比べる。
「知り合い?」
その質問に彩子は黙ったまま、
ほんの少しだけ頷いた。
春彦は一瞬目を見開いた。
知り合い。
彩子は今、自分のことを知り合いだと認識してくれた。
それだけのことなのに。
それだけで少し嬉しかった。
薬剤師は空気を読んだらしい。
「あ、じゃあ先帰るね」
そう言ってエレベーターのボタンを押した。
扉が開く。
薬剤師は軽く手を振る。
彩子は無言で会釈した。
薬剤師が乗り込む。
扉が閉まる。
静かになった。
残ったのは春彦と彩子。
そして少し離れた場所で見守る正美。
春彦は唾を飲み込んだ。
「あ、あの……昼間のことなんすけど……」
声が震える。
彩子は黙っている。
だが目は春彦を見ていた。
逃げるような様子はない。
春彦は必死に続ける。
「あ、彩子さんがもし怒ってないんならすみません、いや、怒っててもすみません」
言った瞬間、
(何言ってんだオレ)
と自分で思った。
「な、何言ってんだオレ……」
案の定、口から漏れた。
柱の陰にいる正美が額を押さえる。
「もうダメだあの子……」
小声で呟く。
彩子は少しだけ目を瞬かせた。
ほとんど会話したこともない相手。
その相手が自分の名前を当然のように呼んでいる。
そのことに少し驚いているようにも見えた。
春彦は焦りながら続ける。
「今日、デパートで会いましたよね」
彩子は何も言わない。
「離れてましたけど……」
沈黙。
春彦はさらに続ける。
「オレ、買い物してて……隣に女の人いたと思うんす」
彩子の目がわずかに動く。
だが表情は読めない。
「も、もしかしたら彼女と一緒にいたって思われたんじゃないかって……」
そこまで言って、
また自信がなくなる。
「べ、別にそんな事思ってなかったんなら、どうでもいいっす」
一拍置く。
「い、いや、どうでも良くはないんすけど……」
正美が思わず吹き出しそうになる。
「何その説明……」
小声で呟く。
彩子は相変わらず黙っている。
だが帰ろうとはしない。
春彦は必死だった。
「あの人はオレのバイト先の先輩で」
「彼女じゃないんす」
「ちょっと一緒に来てもらっただけで……」
紙袋を握る手に力が入る。
「腕組んでましたけど」
春彦は思い出して顔をしかめた。
「あれはあの人がああいう性格で」
「悪ふざけして……」
柱の陰から即座に反応が飛ぶ。
「悪かったわね悪ふざけして」
正美が小声で文句を言う。
もちろん二人には聞こえていない。
春彦は続けた。
「し、信じて下さい」
「本当なんです」
「ウソじゃないっす……」
静寂。
夜風が吹く。
近くの街路樹の葉がかすかに揺れた。
彩子は黙ったまま。
その無表情が何を意味しているのか。
春彦には全く分からない。
疑っているのか。
最初から興味がなかったのか。
怒っているのか。
何も感じていないのか。
何一つ分からない。
だから余計に怖かった。
「だから……」
春彦は震える声で言う。
「か、勘違いしないで欲しいっす……」
「勘違いしてたらですが……」
正美が小声で頭を抱える。
「余計なこと言わなくていいのよ……」
春彦はもう止まれなかった。
ここまで来たら全部伝えるしかない。
彩子はしばらく春彦を見つめていた。
鋭い目。
だがその奥にある感情は読めない。
そして――
彩子の唇がわずかに動いた。
マスク越しに聞こえる静かな声。
「あ、あの……」
彩子がゆっくり口を開く。




