38.ノーアタックノーチャンス
地下街 14:30
デパートを出た二人は、そのまま地下街へ降りていた。
土曜日の昼下がり。
地下街は買い物客であふれている。
カツカツと響くヒールの音。
楽しそうに話すカップル。
紙袋を抱えた家族連れ。
様々な人々が行き交う中、春彦はまるで魂が抜けたように歩いていた。
手には指輪の入った紙袋。
十六万円。
人生で一番高い買い物だった。
だが今は、その重ささえ感じていない。
正美はそんな春彦の様子を横目で見ながら歩いていた。
そして地下街の通路脇にある少し奥まったスペースへ春彦を連れて行く。
自動販売機が並び、ベンチが置かれている。
人通りはあるが、少しだけ周囲から外れた場所だった。
正美は立ち止まった。
春彦も足を止める。
だが春彦の目は虚ろだった。
遠くの床を見つめている。
まるで何も見えていないようだった。
正美はそんな春彦を見上げる。
「ねぇ」
反応がない。
「春彦くん」
春彦がようやく顔を向ける。
「……はい」
正美は腕を組んだ。
「アンタ、このままでいいの?」
春彦は黙る。
「え?」
「このまま」
正美は言葉を続けた。
「結局さ」
「……」
「彩子ちゃんに何もできないまま終わっていいの?」
その言葉が胸に刺さる。
春彦は視線を落とした。
紙袋を握る手に力が入る。
「それは……」
声が出ない。
正美は続ける。
「アンタ彩子ちゃん好きなんでしょ?」
春彦はうつむいたまま頷いた。
「はい……」
「誤解されたんならさ」
正美は一歩近づく。
「その誤解を解かなきゃダメじゃん」
春彦は何も言えない。
「それもせずに」
正美は春彦の顔を覗き込んだ。
「もう諦めるの?」
その瞬間だった。
春彦の目が潤んだ。
彩子の顔が脳裏に浮かぶ。
駅のエレベーター。
すみれ薬局。
ぶっきらぼうな返事。
目つきの悪い横顔。
それでも好きだった。
好きでたまらなかった。
「……いや」
かすれた声。
「いやっす……」
正美は黙って聞いている。
「それは……いやっす……」
春彦の声が震えていた。
目の奥が熱い。
胸が苦しい。
彩子を諦める。
その未来だけは想像したくなかった。
正美は小さく頷いた。
「だったら行かなきゃ」
春彦が顔を上げる。
「でも……」
「うん?」
「ノートに彩子さんの誤解が解けるって書いても……」
春彦は苦しそうに言う。
「四時間後には……」
ノートの効力は四時間。
それは何度も確認した。
ノートで作られた気持ちは消える。
だから意味がない。
しかし。
正美は呆れたように言った。
「バカね」
「え?」
「ノートなんか使わないわよ」
春彦が瞬きをする。
「え?」
正美は真っ直ぐ春彦を見た。
「ガチで行くのよ」
「ガ、ガチで……?」
「そう」
正美は当然のように頷いた。
「アンタの言葉で」
「……」
「アンタの本心で」
「……」
「彩子ちゃんに説明するの」
春彦は固まる。
正美は続ける。
「それで受け入れてもらえれば誤解は解けるんでしょ?」
春彦の喉が鳴る。
「で、でも……」
「なによ」
「もし……」
春彦は視線を落とした。
「もし受け入れてもらえなかったら……」
その言葉には恐怖が滲んでいた。
傷つくのが怖い。
拒絶されるのが怖い。
それが春彦の本音だった。
正美はため息をつく。
「アンタねぇ」
少し呆れた声。
「いつまでも傷つくのは嫌だとか言ってたらダメなの」
春彦は黙る。
正美の声だけが響く。
「このまま放っといても」
「……」
「彩子ちゃんは永久にアンタのものにならない」
その言葉が重かった。
否定できない。
何もしなければ終わる。
確実に終わる。
「でも」
正美は指を立てた。
「説明して」
「……」
「受け入れてもらえたら」
「……」
「誤解は解けるのよ?」
春彦は唇を噛んだ。
正美の言うことは正しい。
正しすぎる。
だから痛い。
「でも……」
まだ迷う。
まだ怖い。
正美は容赦しなかった。
「アンタさ」
「……」
「このまま何もせずに彩子ちゃんとの未来が消える方がマシなの?」
春彦は顔を上げる。
正美の目は真剣だった。
「やるだけやった」
「……」
「それでダメだった」
「……」
「その方がよっぽどマシでしょ?」
春彦は答えられなかった。
だが。
胸の奥で何かが動いていた。
今まで逃げていた。
ノートに頼ろうとしていた。
傷つかない方法ばかり探していた。
でも。
本当に彩子が好きなら。
本当に失いたくないなら。
やるべきことは一つだった。
正美はさらに続ける。
「それにさ」
「……」
「誤解が解けたら」
「……」
「彩子ちゃんと付き合える可能性が復活するのよ?」
春彦の心臓がドクンと鳴る。
「挑戦なくして成功なし」
「ノーアタックノーチャンス」
正美は言った。
「恋愛なんてそんなもんよ」
地下街のざわめきが遠く聞こえる。
春彦はゆっくりと息を吸った。
そして。
小さく頷いた。
「……正美さんの言う通りっす」
正美がニヤッと笑う。
春彦はようやく顔を上げた。
確かに怖い。
受け入れられないかもしれない。
嫌われるかもしれない。
でも。
このまま何もしなければ。
彩子との未来はそこで終わる。
だったら。
ぶつかって砕けた方がいい。
何もせずに後悔するよりかは。
春彦は紙袋を見つめた。
中には指輪が入っている。
彩子のために買った指輪だ。
その意味を無駄にしたくなかった。
正美は満足そうに頷いた。
「よし」
そして当然のように言った。
「それじゃ行くわよ」
春彦が目を丸くする。
「え?」
正美は既に歩き出していた。
「何してんの」
「え?」
「彩子ちゃんのところ」
春彦の顔が引きつる。
「えぇっ!?」




