36. 見られた瞬間
デパート一階・ジュエリー売り場
平日の午前。
ガラス張りのエントランスから差し込む光が、ジュエリー売り場のショーケースをきらきらと照らしていた。
磨き上げられた床。
静かに流れる上品な音楽。
場違いな場所に来てしまったような気分で、春彦は落ち着かない様子で辺りを見回していた。
その隣を歩く正美はというと――。
「で?」
春彦を見上げながらニヤニヤしている。
「何か買ってくれるの?」
「は?」
「ネックレス? 指輪? それとも婚約指輪?」
「違いますよ!」
春彦は慌てて否定した。
「なんで正美さんに買うんすか!」
「えー」
正美はわざと残念そうな顔をした。
「じゃあ何しに来たのよ」
春彦は少し周囲を見回した。
店員に聞かれたら恥ずかしい。
だが、ここまで来て隠しても仕方ない。
「……ペアリングです」
「え?」
正美の目が丸くなった。
「ペアリング?」
「はい……」
「えっ!?」
正美は春彦の肩をバシッと叩いた。
「ちょっと待って!ついに彩子ちゃん射止めたの!?」
「違います違います!」
春彦は首を振る。
「まだです!」
「まだ?」
「こ、告白しようかって……」
「へぇー」
正美は面白そうに笑った。
「ペアリング渡して?」
「はい」
「へぇぇぇぇぇ」
春彦はなんだか恥ずかしくなってきた。
だが正美は遠慮がない。
「でもさぁ」
「はい?」
「令和のこの時代にペアリングってダサくない?」
春彦が固まる。
「えっ」
「なんか平成っぽい」
「ダ、ダサいっすか?」
急に不安になった。
時山の成功例を信じてここまで来たのだ。
しかし女性目線では違うのかもしれない。
正美は肩をすくめる。
「まぁ人によるけどね」
春彦は自分に言い聞かせた。
時山は成功した。
ペアリングで告白して成功した。
だったら自分も――。
「買います」
「おー」
正美が笑う。
「で、どこのリング?」
「どこ?」
「ブランドよブランド」
「ブランド?」
「バカねぇ」
正美は呆れたような顔になる。
「指輪にもブランドがあるの」
「そうなんすか……」
「何にも知らないのねあんた」
「知らないっす」
「ティファニーとか」
春彦が聞き返す。
「ティ、ティファニーっすか?」
「そうそう」
正美は当然のように言った。
そして春彦の腕を掴む。
「ほら来なさい」
「え?」
「見に行くわよ」
⸻
数分後。
ティファニーのショーケースの前。
春彦は値札を見て固まっていた。
「……」
「……」
「……高くないっすか?」
正美が笑う。
「高いわね」
「高いっすよ!」
春彦は思わず声が大きくなった。
最低価格帯でも一つ十六万円。
ペアリングなら二つ。
三十万円どころではない。
春彦の顔色が変わる。
「無理っす……」
「予算いくら?」
「二つで十六万です」
正美が吹き出した。
「それじゃ厳しいわね」
「ですよね……」
春彦は肩を落とした。
すると正美は再び春彦の腕を掴む。
「こっち」
「え?」
「移動」
⸻
しばらくして。
二人は別の店舗へやって来た。
国内ブランド。
ジュエリーオカモト。
落ち着いた雰囲気の店だった。
ティファニーほど高級感で圧倒されない。
春彦は少し安心した。
店員が近づいてくる。
「いらっしゃいませ」
優しそうな女性店員だった。
自然に二人を見比べる。
当然ながら――。
恋人同士だと思っている。
正美は愛想よく笑う。
「ペアリング探しに来たんです」
「かしこまりました」
店員が微笑む。
春彦は少し居心地が悪い。
正美はどんどん話を進める。
「春彦くん、どんなのあげたいの?」
「いや……」
「いやじゃなくて」
「分からないっす」
「は?」
「全然分からないです」
正美が額を押さえた。
「重症だわ」
⸻
ショーケースを見て回る。
シルバー。
ゴールド。
プラチナ。
細いもの。
太いもの。
装飾の多いもの。
春彦には全部同じに見えた。
店員が説明する。
「こちらはプラチナで――」
「へぇ」
「こちらは傷が付きにくく――」
「へぇ」
「こちらは人気商品で――」
「へぇ」
まるで授業を受ける学生である。
正美が呆れている。
「ちゃんと聞きなさいよ」
「聞いてますよ」
「顔が聞いてない」
⸻
その時。
正美がふと思い出したように聞く。
「そういえば彩子ちゃんのサイズ知ってる?」
春彦は首を傾げた。
「サイズ?」
「指輪の」
「指輪にサイズなんかあるんすか?」
正美が絶句する。
「あるに決まってるでしょ!」
「えっ」
「指だって太い細いあるでしょ!」
「そりゃありますけど……」
「だったらサイズもあるの!」
春彦は言葉を失った。
当然だ。
だが考えたこともなかった。
彩子の指。
思い浮かべる。
処方箋を受け取る手。
キーボードを打つ手。
薬を扱う手。
だがサイズなど分かるはずがない。
「知らないです……」
「でしょうね」
正美はため息をついた。
⸻
結局。
正美が勧めた。
シンプルなプラチナリング。
余計な装飾のないデザイン。
「これなら間違いないわ」
「そうなんすか」
「うん」
「じゃあこれで」
春彦はほぼ言いなりだった。
すると店員が言う。
「リングの内側に刻印もできますよ」
春彦が聞き返す。
「刻印?」
正美が即答した。
「イニシャルよ」
「イ、イニシャル?」
「ペアリングだからね」
春彦の胸がドクンと鳴る。
急に現実味が増した。
正美が言う。
「春彦くんはH」
「はい」
「彩子ちゃんはA」
春彦の顔が赤くなる。
「普通は彫るんすか?」
「彫るわよ」
「じゃ、じゃあ……」
春彦はうなずいた。
「彫ります」
⸻
数分後。
店員が戻ってくる。
小さなトレーの上。
二つの指輪。
その内側には。
H.A
そして。
A.H
春彦の心臓が跳ねた。
本当に作ってしまった。
本当に。
彩子に渡すための指輪を。
⸻
店員が電卓を向ける。
160,000円
春彦は息を飲んだ。
カバンを開ける。
銀行の封筒を取り出す。
震える手。
封筒から現金を出す。
一万円札の束。
自分の貯金。
その全て。
「お願いします……」
店員が受け取る。
「ありがとうございます」
紙袋を差し出す。
春彦は両手で受け取った。
ずっしりと重い。
だが重いのは紙袋ではない。
覚悟だった。
⸻
その瞬間。
正美が突然。
春彦の腕に抱きついた。
「幸せになろうね!」
「ちょ、ちょっと正美さん!」
店員が微笑んでいる。
完全に恋人同士だと思っている。
正美はケラケラ笑う。
「いやーめでたいめでたい」
「やめてくださいって!」
「照れてる照れてる」
「違います!」
⸻
その時だった。
春彦の視線がふと店の向こうへ向く。
そして。
固まった。
数メートル先。
マスク姿の女性。
見間違えるはずがない。
短い前髪。
不機嫌そうな目つき。
彩子だった。
「……!」
心臓が止まりそうになる。
彩子もこちらを見ている。
隣には同年代くらいの女性。
友人だろうか。
二人で買い物に来ているらしい。
そして。
彩子の視線は。
春彦。
その隣で腕を組む正美。
そして。
ジュエリーショップ。
紙袋。
その全てを見ていた。
春彦の顔から血の気が引く。
ち、違う。
違うんだ。
この人は彩子の指輪を選ぶために一緒に来てもらっただけで――。
頭の中で必死に弁解する。
だが声にはならない。
彩子は何も言わない。
表情も変わらない。
ただ。
ほんの一瞬だけ春彦を見つめ――。
そして。
静かに目を逸らした。




