35. ペアリングの衝撃
大学の教室。
二限が始まる前のざわついた空気が、教室全体に薄く広がっていた。
前の席では女子がスマホを見せ合って笑っている。
後ろでは男子がゲームの話をしている。
窓の外では春の光が白く反射していた。
その中で、春彦だけが別世界にいた。
机に頬杖をつきながら、視線は宙を泳いでいる。
頭の中では、ずっと同じことを繰り返していた。
——彩子と付き合う。
そのために、ノートをどう使うか。
春彦はカバンの中に入っているノートの感触を思い出す。
残り十一枚。
もう失敗できない。
正美の声が頭の中に蘇る。
『4時間の間に、本当に好きになってもらえばいいんじゃない?』
春彦はゆっくり目を閉じる。
そして、脳内で最初のシミュレーションを始める。
⸻
ノートを開く。
黒いボールペンを持つ。
震える手で書く。
“彩子と付き合う”
その瞬間、願いが叶う。
春彦はそのまますみれ薬局へ向かう。
カウンターにいる彩子。
白衣姿。
いつもの不機嫌そうな目。
「……」
彩子はジロッと春彦を見る。
でも——もう恋人だ。
春彦は緊張しながら言う。
「や、やあ……」
彩子は相変わらず愛想がない。
「……何ですか」
けれど、その声には拒絶がない。
春彦の胸が熱くなる。
「今日……その、終わったら……どっか行かない?」
彩子は少しだけ視線を逸らす。
「……今日、まだ仕事中なんで」
「あ……そ、そうだよね」
「……終わるの、七時です」
「!」
春彦の心臓が跳ね上がる。
彩子は小さく、
「……待っててくれるなら」
と言う。
——だが。
春彦の脳内で時計が進む。
残り三時間。
二時間半。
二時間。
薬局が終わる頃には、もう時間が足りない。
そして——。
四時間。
カチリ。
ノートの効力が切れる。
彩子の目が変わる。
「……何…ですか?」
春彦の背筋が凍る。
——ダメだ。
春彦はガバッと顔を上げた。
「……ダメだこれ……」
小さく呟く。
教室の空気が一瞬だけ耳に戻る。
誰かが笑っている。
椅子を引く音がする。
しかし春彦の頭の中は次のシミュレーションに移っていた。
⸻
じゃあ、休みの日なら?
彩子が休日の日にノートを書く。
それなら四時間全部使える。
春彦は想像する。
休日の彩子。
マスク姿。
私服。
スマホを見ながら歩いている。
そこへ自分が現れる。
「彩子さん」
彩子が振り向く。
「……春彦さん?」
——いや待て。
春彦はハッとする。
彩子がどこに住んでるか知らない。
「……無理じゃん……」
頭を抱える。
住所も知らない。
休みの日も知らない。
そもそも休日にどこへ行くのかも知らない。
これでは会えない。
春彦はまた机に突っ伏した。
「詰んでるだろ……」
小さく呟く。
すると前の席の男子が振り返る。
「ん?」
「あ、いや何でもない」
春彦は慌てて誤魔化す。
そしてまた目を閉じた。
⸻
最後のシミュレーション。
これしかない。
彩子の仕事終わり。
それなら確実に会える。
春彦は頭の中で光景を作り出す。
夜。
すみれ薬局。
自動ドアが開く。
白衣を脱いだ彩子が出てくる。
黒い服。
マスク。
肩にバッグ。
疲れた顔。
春彦は薬局前で待っている。
彩子が気づく。
「……何してるんですか」
不機嫌そうな声。
でも今は恋人。
春彦はぎこちなく笑う。
「やあ……終わるの待ってたんだ」
彩子は少しだけ目を細める。
そして春彦の横に並ぶ。
——そこから先。
春彦の思考が止まる。
「…………」
何を話せばいい?
デートって何する?
どこ行く?
何食べる?
どうやって好きにさせる?
春彦の頭の中で、彩子がじっとこちらを見ている。
「……」
沈黙。
気まずい。
春彦は必死に話題を探す。
「あ、あの……薬局って大変?」
「……別に」
終わる。
「き、今日は寒いね」
「……そうですね」
終わる。
「……」
「……」
彩子が怪訝そうに春彦を見ている。
——何この人。
そんな顔。
春彦は脳内で絶望した。
ヤバい。
これじゃ4時間で好きになってもらうなんて無理だ。
大きくため息をつく。
その時だった。
「よう、久しぶり」
声が降ってきた。
春彦が顔を上げる。
そこには時山が立っていた。
「……時山?」
ラフなパーカー姿。
ニヤニヤしている。
時山は空いている席にドカッと座った。
「なんだよお前、葬式みたいな顔して」
「いや……別に」
「絶対別にじゃねーだろ」
時山は笑う。
だが逆に春彦は気づく。
今日の時山、妙に機嫌がいい。
「お前こそ何だよ。なんかウキウキしてね?」
すると時山はニヤァっと笑った。
「実はな」
身を乗り出す。
「最近、彼女できた」
「はぁ!?」
春彦が思わず大声を出す。
周りの学生がチラッと見る。
「マジかよ!?」
「マジマジ」
「どこの子!? 同じ学部!?」
「いや、コンビニで働いてる子」
春彦は心の中で愕然とした。
(こんなやつに彼女……!?)
時山はそんな春彦の反応を楽しむように笑っている。
その時。
春彦の視線が止まった。
時山の左手。
薬指。
銀色のリング。
「……それ、何?」
「あ?」
時山は得意げに指を見せた。
「これ?」
ニヤッと笑う。
「ペアリング」
「ペア……?」
「これが決め手だったんよ」
春彦は意味が分からず眉をひそめる。
「は?」
時山は机に肘をついて語り始めた。
「告白する時にな、リング作ってさ」
「……うん」
「“これ、二人で付けて欲しい”って言ったんよ」
春彦の目が見開かれる。
「そしたらOKしてくれた」
「……マジで?」
「マジ」
時山は嬉しそうに笑った。
「女って、ああいうの弱いんだって」
春彦はリングを見つめる。
キラリと光る銀。
その瞬間。
脳内に彩子が浮かぶ。
彩子の細い指。
そこにリング。
自分と同じもの。
胸がドクンと鳴る。
「……いくらするんだ、それ」
「一個八万」
「は?」
「だから二つで十六万」
春彦の顔が引きつる。
「じゅ、十六……!?」
時山はケラケラ笑う。
「なんだよその顔」
「高ぇだろ……!」
「バーカ」
時山は呆れたように言う。
「彼女になるんだぞ?」
そしてニヤッと笑った。
「十六万の何が高いんだよ」
春彦は黙る。
——彼女になる。
その言葉が重く胸に落ちる。
もし。
もしそれで彩子が本当に自分を好きになってくれるなら。
もしノートの四時間の間に。
本物の気持ちが芽生えるなら。
十六万なんて——。
春彦はゆっくり顔を上げた。
時山を見る。
「……なあ」
「ん?」
「その話」
春彦の目が真剣になる。
「もっと詳しく教えてくれ」




