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願いが一つだけ叶うノートを手にした僕は、あのツンツンした薬剤師に使うべきか迷っている  作者: 播磨 颯太


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34.止められない気持ち

駅前の雑踏の中。


春彦はスマホを耳に当てたまま、立ち尽くしていた。


朝の光がガラス張りの駅ビルに反射している。

通勤客が次々と横を通り過ぎていく。


だが春彦の耳には、正美の声しか入ってこない。


『それはね…』


正美が寝起き混じりの声で言う。


『もう、いきなり付き合うって書けばいいじゃん』


春彦は反射的に否定する。


「だからそれだと、4時間後に解けるんですって!」


『でもさ』


正美はあっさり返す。


『もしその4時間の間に、彩子ちゃんが本当にあんたのこと好きになってたら?』


その瞬間。


春彦の思考が止まった。


「……え?」


駅前の音が遠のく。


『だから』


正美は当たり前みたいに続ける。


『ノートで作った気持ちは消えるんでしょ?』


「……はい」


『でも、本人から自然に生まれた気持ちなら、別じゃないの?』


春彦の胸がドクンと跳ねる。


確かに。


確かにそうだ。


今まで自分は、“ノートで作られた気持ち”しか考えていなかった。


だが――


4時間の間に、本当に好きになったなら?


その感情は、本物だ。


ノートの力が切れても消えないかもしれない。


春彦は息を飲む。


「……でも」


我に返る。


「4時間ですよ?」


春彦は半笑いになりながら言う。


「4時間で好きにさせるなんて無理ですよ……」


額に汗が滲む。


「順番飛ばしてません?」


すると正美が即座に返す。


『順番? 飛ばしてないわよ』


「え?」


『私、言ったでしょ?』


正美の声が少し真面目になる。


『なんとも思ってない相手に告白されても無理だけど、“気になる相手”とか、“好きな相手”ならOKするって』


春彦はハッとなる。


確かに。


正美はあの時、そう言っていた。


『つまりね』


正美は続ける。


『彩子ちゃんが、少しでもあんたに気があるなら、いけるかもしれないってこと』


春彦の喉が鳴る。


「……まさか」


春彦は苦笑する。


「今日のあの反応、気があるとは思えないんすけど……」


彩子の無表情。

小さい返事。

警戒した目。


あれのどこに好意があるんだ。


だが正美は笑う。


『私言ったでしょ?』


『本当に嫌なら、呼び止められても相手にしないって』


春彦は押し黙る。


『エレベーター降りてからも話してくれたんでしょ?』


「……まあ」


『だったらゼロじゃないじゃん』


春彦は駅前の植え込みをぼんやり見る。


「でもそれって……」


言葉を探す。


「嫌じゃないってだけで、気があるってのとは違うんじゃ……」


正美が少し呆れたように笑う。


『じゃあ聞くけどさ……』


『あんた、一体どうなりたいのよ?』


春彦は即答だった。


「……彩子さんと付き合いたいです」


『でしょ?』


正美の声が強くなる。


『だったら賭けに出なさいよ』


春彦の心臓が跳ねる。


『ぐずぐずしてる間に、他の男に取られたらどうすんのよ?』


その言葉が、胸に突き刺さる。


春彦の脳裏に、知らない男と並んで歩く彩子の姿が浮かぶ。


笑っている彩子。


自分に見せたことのない顔を、別の男に向けている彩子。


胸の奥がザワッとした。


「……でもオレ、失敗したくないんすよ」


春彦は苦しそうに言う。


「一か八かは嫌っすよ……」


正美がため息をつく。


『もー』


『あんたは石橋叩いて潰すタイプね』


春彦は何も言えない。


電話の向こうで、正美がしばらく考えている気配がする。


『……うーん』


『今は思いつかない』


「え?」


『もっといい方法』


正美は欠伸混じりに言う。


『なんかありそうなんだけどねぇ』


春彦は少し期待した顔になる。


だが正美は、


『また思いついたら電話する』


と言った。


春彦は苦笑する。


「……すいません、寝てたとこ」


『ほんとよー』


でも正美は笑っていた。


『ま、頑張りなさい』


通話が切れる。


春彦はしばらくスマホを見つめていた。


そしてゆっくり顔を上げる。


目の前には、すみれ薬局。


ガラス越しに中を覗く。


カウンター。


パソコン。


そして――


白衣姿の彩子。


春彦の胸が熱くなる。


いる。


今日もいる。


辞めてない。


彩子はパソコン画面を睨むように見つめ、カタカタとキーボードを叩いている。


相変わらず愛想のない顔。


でも春彦には、その姿がたまらなく愛しかった。


「……よかった」


小さく呟く。


だが今日はもう会った。


ここでまた入ったら、さすがに不自然だ。


春彦は薬局を通り過ぎる。


エレベーターへ戻る。


中に入り、閉ボタンを押す。


静かな箱の中。


春彦はさっきのことを思い出す。


ここで彩子と二人きりだった。


あの狭い空間。


彩子の横顔。


マスク。


短い前髪。


白い指。


春彦はゆっくり息を吸う。


そして。


クンクン、と鼻を鳴らした。


当然、匂いなんて残っているわけがない。


それでも春彦は目を閉じる。


「……彩子の匂いする」


そう言い聞かせる。


胸が苦しくなる。


エレベーターが改札階へ着く。


改札へ向かう春彦。


ホームへ降りる。


電車が来る。


乗り込む。


窓際に立ちながら、春彦は正美の言葉を思い返していた。


『ぐずぐずして他の男に取られたらどうするのよ?』


その通りだ。


それに――


ノートの枚数。


春彦はカバンを開ける。


ノートを触る。


薄い。


明らかに。


最初より。


残り少ない。


このまま悩んでいる間に消えてしまうかもしれない。


何もしないまま。


彩子と何も始まらないまま。


電車が揺れる。


春彦は目を閉じる。


頭の中に三つの未来が浮かぶ。


ノートを使わず終わる未来。


ノートを使って失敗する未来。


そして――


彩子と笑い合っている未来。


海沿いを歩く二人。


薬局帰りの彩子。


自分の隣で少しだけ笑う彩子。


「春彦くん」


そう名前を呼ぶ彩子。


春彦の拳が震える。


このまま終わりたくない。


彩子を、誰にも取られたくない。


その瞬間。


春彦は――


カッと目を見開いた。

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