33.正美の助言
駅前のロータリーを、朝の通勤客が足早に流れていく。
バスが吐き出す排気音。
コンビニの自動ドアの電子音。
遠くで鳴る踏切。
その喧騒の中で、春彦はまるで自分だけ別の世界にいるみたいに立ち尽くしていた。
胸がまだドクドクしている。
彩子と喋った。
ほんの数十秒。
それだけなのに、春彦の頭の中では何度も何度も、さっきの光景が再生されていた。
「あの……」
振り返った彩子の、警戒した目。
マスク越しでも分かる、不機嫌そうな顔。
それでも逃げずに話を聞いてくれた。
『は、はい……』
その小さな返事。
春彦はスマホを握りしめる。
「……正美さんなら、どう言うんだろ」
迷った末、通話ボタンを押した。
コール音。
一回。
二回。
三回。
出ない。
春彦はそわそわしながら周囲を歩き回る。
八回。
九回。
「……出てくださいよ」
十回目。
ようやく通話が繋がった。
『……もしもし……』
完全に寝起きの声だった。
春彦は慌てる。
「あっ、正美さん!? 春彦です!」
『はるひこぉ……?』
正美の声はとろけるほど眠そうだった。
『……何時だと思ってんのよぉ、もう……』
春彦は時計を見る。
もう朝の九時前。
「あっ……す、すいません! 寝てたんすか?」
『寝てたわよぉ……もー……』
だが怒っている感じではない。
むしろ半分夢の中みたいな声だ。
春彦は早口になる。
「正美さん、ちょっと相談したいことがあって……」
『何よぉ、こんな朝からぁ……』
「彩子さんのことです」
その瞬間。
電話の向こうの空気が変わった。
『彩子?』
少し間。
『……ごめん、誰だっけ?』
春彦はガクッとなる。
「前バイトの時言ったじゃないですか!」
『……あー』
正美が思い出した声を出す。
『薬剤師の彩子ちゃんね? あんたが好きな』
「そうです!」
『で? どうしたの?』
急に声に張りが出る。
男と女の話になると、正美は一気に目が覚める。
春彦は唾を飲む。
「今、会ったんです」
『えっ!?』
正美の声が跳ね上がる。
『今会ってたの!? やるじゃんあんた! いつの間にそんな進んでたの!?』
「ち、違いますよ!」
春彦は慌てる。
「今エレベーターでばったり会っただけです!」
『え? たまたま?』
「はい……」
『で?』
正美の声がニヤニヤしている。
『好きですって言ったの?』
「言うわけないじゃないですか!」
春彦は真っ赤になりながら言う。
「そんなの不審者ですよ!」
正美が電話の向こうで笑う。
『何それぇ。せっかくのチャンスだったのに』
「正美さんが順番があるって言ったじゃないですか!」
『あー……』
正美は納得したように言う。
『そうだったわねぇ』
そしてすぐ続ける。
『じゃあ友達になってくださいって言ったの?』
「それもいきなり過ぎますって!」
春彦は頭を抱える。
「まだほとんど話した事もないのに……」
『え?』
正美が呆れたように言う。
『じゃあ何話したのよ』
春彦は駅前を歩きながら、小さく息を吐いた。
「彩子さん……あの事件から一週間休んでたんです」
『……あんた、よく知ってるわね』
「……毎日見に行ってましたから」
言った瞬間、自分でもキモいと思った。
春彦は顔をしかめる。
「もしかしたら辞めたんじゃないかって焦って……」
すると正美がクスッと笑う。
『ふーん』
含みのある笑いだった。
『それで今日も行ったら、エレベーターで会ったんだ?』
「はい……」
『で?』
「勇気出して話しかけました」
『おぉー』
正美が感心したように言う。
『なんて?』
春彦は緊張した当時を思い出す。
「……休んでたんで心配してたんです、って」
『へぇー』
「あと……辞めたんじゃないですよね?って聞いて……」
『他は?』
「また薬局行ってもいいっすかって……」
正美が吹き出す。
『勇気出したじゃん!』
春彦は少し照れる。
「で、でも反応薄くて……」
『彩子ちゃん何て?』
「“はい”しか言わなくて……」
正美は少し考える。
『その子ってどんな感じなの?』
「目つき悪くて、愛想悪くて……」
『普段から?』
「はい」
すると正美は即答した。
『じゃあ問題ないんじゃない?』
「え?」
『それが素なんでしょ、その子』
春彦は足を止める。
『愛想いい子が冷たかったら脈なしだけど、元からそういう子なら普通対応なんじゃないの?』
春彦の胸がドクンと鳴る。
「……脈、ありますかね?」
沈黙。
正美は少し笑いながら言う。
『あるかどうかは分かんない』
春彦の心臓が縮む。
だが次の言葉で、一気に持ち上がる。
『でも、無いって事はないんじゃない?』
「……!」
『ほんとに嫌なら相手にもされないわよ』
春彦は目を見開く。
「ほんとすか……?」
『大丈夫だって』
春彦の顔が少し緩む。
通行人と肩がぶつかりそうになって慌てて避ける。
胸の奥に、熱いものが広がっていく。
彩子は、自分を完全拒絶したわけじゃない。
それだけで、世界が違って見えた。
春彦はカバンを握る。
その中には、あのノートが入っている。
「……正美さん」
『んー?』
「ノート……今から使った方がいいっすかね?」
『ノート?』
正美が笑う。
『あー、魔法のノートね』
春彦は真剣だった。
「まずは友達からなんで……友達になって下さいって……」
その時だった。
『ちょっと待ちなさい』
正美の声が急に真面目になる。
春彦の心臓が跳ねた。
「……え?」
なぜ止める?
まさか、ダメなのか?
春彦は立ち止まる。
「なんでっすか?」
すると正美は静かに聞いた。
『そのノートって、何回でも使えるの?』
「……一回だけです」
『ふーん』
少し間。
そして正美は言う。
『だったらさ』
『友達になるくらいなら、ノート使わなくてもいけるかもしれないじゃん』
春彦の呼吸が止まる。
『それならもっと別のことで使った方が良くない?』
春彦の目が揺れる。
確かに。
確かにそうかもしれない。
もし普通に友達になれるなら――。
春彦は思わず聞く。
「……他のことって?」
電話の向こうで、正美が意味深に笑った。
『それはね……』




