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願いが一つだけ叶うノートを手にした僕は、あのツンツンした薬剤師に使うべきか迷っている  作者: 播磨 颯太


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32.届いた声

駅のエレベーター。朝の光がガラス越しに白く差し込む、張り詰めた空間。


「――あの!!」


その一声で、時間が止まる。


彩子の足が止まり、ゆっくりと振り返る。


恐る恐る、という動きだった。


事件の記憶がまだ生々しく残っているのか、明らかに警戒している。


春彦の心臓は、今にも破裂しそうなほど暴れている。


「……っ」


喉が乾く。


振り返った彩子の顔。


マスク越しでも分かる無愛想な表情。

鋭い目つき。

短く切られた前髪。


白衣は着ていないが――


間違いなく、彩子だ。


彩子はじっと春彦を見る。


その視線は冷たく、値踏みするようでもあり、そしてどこか怯えも混じっている。


当然だ。


あの事件の直後だ。


知らない男に呼び止められれば警戒して当然。


(……覚えてないのか?)


春彦の胸に不安が広がる。


沈黙。


エレベーターの機械音だけがやけに大きく響く。


その時――


「……あ」


彩子の口から、小さな声が漏れる。


思い出した。


その反応だった。


春彦の心臓が一瞬止まり、次の瞬間、さらに強く打ち始める。


「……」


何か言わなければ。


でも、言葉が出てこない。


頭が真っ白だ。


春彦はとっさに、扉の「開」ボタンを押し続けていた。


閉まりかけていた扉が止まる。


彩子は一瞬迷ったように外を見て――そのまま降りる。


春彦も慌てて後を追うように降りる。


外に出ると、朝の空気がひやりと頬を撫でる。


すみれ薬局はすぐそこだ。


二人の間に、重い沈黙が流れる。


足音だけが並ぶ。


(何か言え……何か……!)


春彦は必死に言葉を探す。


そして――


「き、今日は……?」


絞り出すような声。


自分でも情けないと思うくらい、不自然だった。


でも聞かずにはいられなかった。


辞めるのか。戻るのか。


それだけが知りたい。


彩子は一瞬だけ目を逸らし、小さく答える。


「……今から、出勤で……」


その言い方は、明らかに仕事中のそれではない。


よそよそしい。距離を置いた声。


それでも――


その言葉を聞いた瞬間。


春彦の胸に溜まっていたものが、一気にほどける。


「よかった……」


声には出さず、心の中で呟く。


「や、休んでたんで……心配してたんす」


震える声。


彩子の眉がわずかに動く。


「……なんで?」


そう言いたげな、少し驚いた目。


春彦はそこで初めて気づく。


(あ……オレ、見に行ってたってバレたか……)


でももう遅い。


言葉は止められない。


彩子は小さく、顎を突き出すように会釈する。


それだけ。


それだけなのに、距離が少しだけ縮まった気がした。


「オ、オレ……」


続けようとして――止まる。


言えない。


“友達になってください”


そんな言葉、ここで言えるわけがない。


唐突すぎる。


不審がられたら終わりだ。


絶対に、ここで失敗したくない。


春彦は必死に言葉を選び直す。


「や、辞めちゃったらどうしようって……思ってて……」


一呼吸。


「……そうじゃないんすね?」


彩子の目が少しだけ見開く。


「……は、はい……」


小さな肯定。


それだけで十分だった。


「ま、また……薬局、行ってもいいっすか?」


恐る恐る。


踏み込みすぎないギリギリのライン。


彩子は不思議そうな顔をする。


「……は、はい……」


ぎこちない返事。


でも――拒絶ではない。


彩子は少しだけ視線を逸らし、


「……それじゃあ……」


小さく言って、軽く会釈をする。


そして、足早にすみれ薬局へ向かっていく。


その背中は、あっという間に遠ざかる。


残された春彦。


その場に立ち尽くす。


「……」


そして――


ゆっくりと、息を吐く。


「……しゃべった……」


それは会話と呼べるほどのものじゃないかもしれない。


でも確かに言葉を交わした。


逃げられなかった。


拒絶されなかった。


それだけで――


胸がいっぱいになる。


「……よかった」


彩子は辞めていなかった。


それだけでも、奇跡みたいだった。


目つきは悪いし、愛想もない。


でも――


(……ああ、やっぱり彩子だな)


そのままだった。


イメージ通りだった。


あの事件のことには触れられなかった。


でも多分、混乱していて覚えていないんだろう。


それでもいい。


今、こうして逃げずに話してくれた。


それだけで――


希望になる。


「……いけるかも」


小さく呟く。


ノートの力を使って、きっかけを作る。


その後は、自分で繋げる。


さっきの感触なら――


うまくいくかもしれない。


その時だった。


カバンに手を入れた瞬間、違和感。


「……あれ?」


ノートを取り出す。


厚みが――薄い。


明らかに減っている。


嫌な予感が走る。


急いでページをめくる。


一枚、二枚、三枚……


数える指が震える。


そして――


止まる。


「……11枚……?」


血の気が引く。


「……減りすぎだろ……」


いつの間にか、ここまで減っている。


もう余裕なんてない。


使わなければ、終わる。


時間はない。


春彦は息を飲み、すぐにスマホを取り出す。


誰に頼るべきか――答えは一つ。


迷いなく、連絡先を開く。


そして――


あの人物に電話をかけた。

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