31. 再会のエレベーター
春彦の部屋。23時10分。
バイトから戻ったばかりの部屋には、まだ外の冷たい空気がわずかに残っている。ベッドに腰を落とした春彦は、天井をぼんやりと見上げていた。
頭の中では、さっきの正美の言葉が何度も反芻されている。
――友達からでしょ?
「……友達、か」
ぽつりと呟く。
ノートの効力は4時間。
ノートにより作られた“感情”は、時間が来れば消える。
だが――
“出来事”として成立したものは消えない。
正美と卓馬の関係がそれを証明している。
「……つまり、最初の一歩だけ借りればいいんだ」
自分で言いながら、拳を握る。
でも、すぐに力が抜ける。
「……無理だろ」
現実が重くのしかかる。
彩子は自分のことをほとんど知らない。
話したこともほぼない。
そもそも今、薬局にすらいない。
「会えなきゃ……意味ないじゃん」
ため息が漏れる。
ノートの4時間。その間に接触できなければ、すべて無駄だ。
春彦はゆっくりと起き上がり、カバンからノートを取り出す。ページを開き、ペンを握る。
「いっそ……」
頭に浮かぶのは、荒唐無稽な光景。
彩子の前に、突然自分が現れる――
瞬間移動。
薬局でも、帰り道でもいい。目の前に現れて話しかける。
一瞬、現実味を帯びる。
だが――
次の瞬間、別の映像が浮かぶ。
彩子が驚き、顔を歪め、逃げる。
冷たい目。拒絶。
「……だめだ」
春彦は力なくペンを置いた。
「それじゃ意味ない……」
ノートを閉じる音だけが、やけに響いた。
――翌日から。
春彦はほとんど習慣のように、すみれ薬局の前を訪れるようになる。
授業の合間、バイト前、帰り道。
ガラス越しに中を覗く。
だが――
彩子はいない。
一日、二日、三日。
そして――一週間。
大原の事件から、何も進展しないまま時間だけが過ぎていく。
その日も、同じだった。
西元山駅で電車を降り、無意識のように薬局のある方へ足が向く。
エレベーターに乗り込む。
中には誰もいない。
静かだ。機械音だけが低く響く。
春彦は壁にもたれ、ぼんやりと前を見つめていた。
――その時。
閉まりかけた扉が、もう一度開く。
誰かが乗り込んできた。
春彦は振り向かない。なんとなく、そのまま前を向いている。
扉が閉まり、エレベーターが動き出す。
ゆっくりと下降していく。
その時だった。
正面のガラスに、後ろの人物の姿が映る。
マスクをした女性。
細い体。肩のライン。
見慣れたシルエット。
春彦の心臓が、ドクンと強く打つ。
「……まさか」
息が浅くなる。
もう一度、ガラスを見る。
横顔が少しだけ見える。
その目つき。
少し吊り上がった、不機嫌そうな視線。
間違いない。
彩子だ。
一気に血が巡る。
心臓が暴れ出す。
「嘘だろ……」
今日から復帰なのか?
それともまさか――
辞める挨拶に来たのか?
分からない。
でも、ここにいる。
今、同じ空間にいる。
それだけで、現実が歪む。
話しかけなきゃ。
今しかない。
でも――
足が動かない。
喉が固まる。
言葉が出てこない。
エレベーターは静かに1階へ近づいていく。
ピン、と階数表示が変わる。
「……あの」
やっと出た声は、自分でも驚くほど小さい。
空気に溶けて消える。
届いていない。
彩子は微動だにしない。
扉の上のランプが点灯する。
1F。
「まずい……」
焦りが一気に込み上げる。
扉が開く。
外の光が差し込む。
彩子が一歩、前へ出ようとする。
終わる。
このまま、終わる。
もう二度と会えないかもしれない。
「……あの」
もう一度。
でも、また小さい。
届かない。
彩子はそのまま降りようとしている。
その瞬間――
春彦の中で何かが切れた。
「――あの!!」
さっきより、明らかに大きな声。
ほとんど叫びに近い。
時間が止まる。
彩子の足が――
ピタリと止まる。




