24. 状態と出来事の違い
薄暗い部屋に、机の上のスタンドライトだけがぽつんと灯っている。
時計の針は、午前二時を少し回ったところを指していた。
春彦はベッドの縁に腰掛け、カバンから取り出したノートをゆっくりと開く。
紙の擦れる音が、やけに大きく響いた。
そこに書かれている文字。
――「卓馬がデートの誘いにOKする」
「……やっぱり、これか」
春彦は指でその一文をなぞる。
正美が何気なく書いた、たった一行の願い。
だが、その結果は――明らかに、異常だった。
「OKされた時点で、もう“願いは達成”ってことか……」
頭の中で、これまでの出来事が一つずつ繋がっていく。
母の願い――森下の満塁ホームラン。
それは一度起これば、時間が経っても消えない。
正美の願い――デートの誘いにOKする。
これも、OKされた時点で成立し、その後も続いた。
一方で――
「堀田のは……違う」
春彦の脳裏に、顔を腫らして泣いていた堀田の姿が浮かぶ。
「“奈津子と付き合いたい”……これは“状態”だ」
書いた瞬間、確かに成立した。
だが、それは持続する状態だった。
だから――
「四時間経ったら、元に戻る……」
春彦はゆっくりと息を吐く。
「……なるほどな」
静かに呟いたその声には、確信が滲んでいた。
「つまり……」
ノートを見つめながら、思考を言葉にしていく。
「“何かを起こす願い”は、その出来事が発生した時点で完了する。
でも、“状態を維持する願い”は、四時間しか持たない……」
背筋にゾクッとしたものが走る。
「そういうことかよ……」
春彦の心臓が、ドクンと強く鳴った。
「じゃあ――」
一気に思考が加速する。
「もし……“彩子がデートの誘いにOKする”って書けば……」
脳裏に浮かぶのは、あの無愛想な薬剤師の顔。
短い前髪、冷たい目、短い返事、隙のない態度。
「四時間以内に誘えば……OKされる」
その先を想像する。
「そのデートで……ちゃんと関係を築いて……」
そして――
「告白すれば……」
喉が鳴る。
「ノートの力じゃなくて、本当に付き合える……?」
その可能性に、全身が熱くなる。
だが――
ふと、違和感が差し込む。
「……いや、待てよ」
眉をひそめる春彦。
「そもそも……彩子は俺のこと、ほぼ知らないよな」
一気に現実が押し寄せてくる。
「そんな状態で、いきなりデートって……成立するのか?」
頭の中に浮かぶのは、気まずい沈黙の時間。
会話が続かない空気。
視線を逸らす彩子。
「……絶対、変な空気になる」
思わず苦笑する。
その時――
「……あ」
ふと、ある言葉が蘇る。
正美の声だ。
『いきなり告白されてもダメなのよ』
『気になってる相手とか、好きな相手から告白されるからOKするの』
『順番があるのよ』
「……そうだ」
春彦は小さく呟く。
「順番……」
ノートを握る手に、力がこもる。
「いきなり“好きにさせる”のはダメだ。四時間で切れる」
「いきなり“付き合う”もダメだ。四時間で終わる」
「でも――」
顔を上げる。
「“きっかけ”なら残る」
その言葉に、自分でゾッとする。
「デートの約束。会話。印象……」
「それは、四時間が終わっても消えない」
春彦の呼吸が、少しずつ荒くなる。
「でもその前に……」
現実が立ちはだかる。
「そもそも俺、彩子とまともに話したことないだろ……」
ただの客。
それも数回見ただけの存在。
「そんな奴に誘われて……普通、OKするわけない」
ノートがあっても、だ。
「……まずは」
春彦はゆっくり立ち上がる。
「顔見知りになるところから、か」
時計を見る。
――午前三時。
部屋は静まり返り、外からは遠くの車の音だけが聞こえる。
机の上に置かれたノート。
残りページは、確実に減っている。
「時間はない……」
焦りが胸を締め付ける。
「でも……焦っても意味ない」
唇を噛む。
「すみれ薬局に行く理由……」
頭の中で、何度もシミュレーションを繰り返す。
風邪?
怪我?
薬の相談?
「いや……どれも弱い」
彩子の冷たい視線が浮かぶ。
「怪しまれる……」
ベッドの周りを歩き回る。
考える。
「どうすれば……自然に……」
その時だった。
ふと、あるイメージが頭に浮かぶ。
「……あ」
足が止まる。
「……それ、いけるかも」
目が、わずかに見開かれる。
「いや……待て、これなら……」
徐々に、口元が歪む。
「いける……!」
春彦の中で、点と点が繋がる。
「これなら自然だ……不自然じゃない……」
ノートを握りしめる。
「彩子と話せる……きっかけになる……」
胸の奥で、何かが弾けた。
「……よし」
静まり返った部屋の中で、春彦は一人、確かな手応えを感じていた。
その目には、次の一手への確信が宿っていた。




