22.正美からの電話
海の見えるレストラン。夜の帳が完全に落ち、窓の外は黒い海に街の光が揺れている。
「ありがとうございましたー!」
最後の客の背中に向かって、スタッフ全員が声を揃える。ドアが閉まると同時に、張り詰めていた空気がふっと緩んだ。
食器の片付け、テーブルの拭き上げ、床の掃除――それぞれが慣れた手つきで動き、やがてすべてが終わる。
タイムカードを押す音が、カチ、カチ、と静かに響く。
「お疲れさまでしたー」
「おつかれー」
スタッフたちがゾロゾロと更衣室へ向かう中――
「正美さん」
春彦が声をかける。
「ん?」
「……ノートの件なんですけど」
一瞬きょとんとした顔の正美。しかしすぐに思い出したように笑う。
「あー、あれね。魔法のやつ?」
「はい。今から持ってきます」
「はいはい」
軽い調子で返す正美。完全に半信半疑どころか、ほぼ遊び感覚だ。
春彦は急いで男子更衣室へ入り、カバンからノートとペンを取り出す。
手が、わずかに震えている。
(……これで分かる)
戻ると、正美は壁にもたれて待っていた。
「早かったね」
「書いてください」
春彦はノートを開き、差し出す。
白いページ。
そこに、正美は何の躊躇もなくペンを走らせる。
――サラサラ……
「“卓馬がデートの誘いにOKする”……これでいい?」
「はい」
即答する春彦。
正美はノートを閉じて返しながら笑う。
「じゃ、お疲れー」
そのまま帰ろうとする背中を――
「正美さん」
呼び止める。
「ん?なに?」
「……デート、いつ誘うんですか?」
「え?そのうち。タイミング見て――」
「今日です」
はっきりと断言する春彦。
正美は目を丸くする。
「は?無理でしょ。もう9時よ?今からデートとか、誰がOKすんのよ」
「今日ならいけます」
「いやいや、今まで何回も断られてるのに?」
「今日ならいける気がするんです」
強く、押し切るように言う。
正美は呆れたように笑う。
「……あんた、なんか変な自信あるね」
「お願いします。今日、誘ってください」
少しの沈黙。
そして――
「……分かったけど」
渋々うなずく。
「卓馬、まだいるしね」
「はい。お願いします」
「じゃ、お疲れ」
正美は女子更衣室へと消えていく。
春彦はすぐに男子更衣室へ入り、急いで着替える。
心臓がうるさい。
(始まってる……もう始まってるんだ)
従業員出入口の外、柱の影に身を潜める。
夜の空気がひんやりと頬を打つ。
――ドキドキドキドキ……
(本当に誘うのか……?)
(そして……OKするのか?)
ガチャ。
ドアが開く。
最初に出てきたのは正美。
周囲を見回し、帰らずにその場に留まる。
(……待ってる)
春彦の鼓動がさらに速くなる。
その後、るり子と絵美が出てきて、
「お疲れー」
「おつかれー」
と軽く会話しながら去っていく。
そして――
再びドアが開く。
出てきたのは、卓馬。
その瞬間、正美の体がピクリと動く。
一歩踏み出し、自然な笑顔を作る。
「卓馬」
「お、正美さん」
「今からさ、ご飯行かない?」
軽い調子。いつも通りのトーン。
――一瞬の間。
春彦の時間が止まる。
(……来るぞ)
卓馬は――
「いいっすよ」
即答だった。
「……え?」
正美の顔が固まる。
「え、いいの?」
「全然いいっす。腹減ってたし」
屈託のない笑顔。
まるで何の迷いもない。
物陰から見ていた春彦は、背筋に冷たいものが走る。
(……やっぱりだ)
(ノートの力だ)
正美はまだ現実を飲み込めていない。
「ど、どこ行く?」
「どこでもいいっすよ」
「……じゃあ、近くのファミレスでいい?」
「いいっすいいっす」
二人は並んで歩き出す。
ぎこちないはずの距離が、妙に自然に近い。
会話も弾んでいる。
その背中を、春彦はただ見送る。
(……すごいことになった)
胸の奥がゾワゾワする。
(これが……きっかけ)
(ここから、本当に好きにさせられたら……)
夜の街に二人の姿が消えていく。
春彦はゆっくりと、その場を離れた。
――――――
自宅。
風呂を終え、部屋のベッドに倒れ込む。
時計は――12時45分。
「……あと15分」
呟く。
ノートの効力が切れるまで、あとわずか。
(……今どうなってる?)
まだ二人は食事中か?
笑っているのか?
それとも――
15分後、何が起きる?
今日一日の出来事が頭の中でぐるぐると回る。
堀田の実験。
大原の阻止。
そして――正美。
「……疲れた」
まぶたが重くなる。
思考が途切れ、
そのまま意識が沈んでいく。
――――――
……ピリリリリ……
……ピリリリリ……
スマホの音。
ぼんやりとした意識の中で、音だけが響く。
「……ん……」
目を開ける。
真っ暗な部屋。
一瞬、自分がどこにいるのか分からない。
時計を見る。
1:30。
(……寝てたのか)
スマホを見る。
正美。
一気に意識が覚醒する。
通話ボタンを押す。
「……もしもし」
『ごめん、寝てた?』
「……大丈夫です」
声はまだ少し掠れている。
だが心臓は激しく鳴っている。
(……もう、効力は切れてる)
春彦は唾を飲み込む。
「……どうでした?」
静かに、しかし強く問いかける。
その瞬間――
電話の向こうで、正美が一拍置いた。
そして――
次の言葉が、春彦の運命を揺らす。




