21. 正美の恋愛理論
海に面したガラス張りのレストラン。まだ夕焼けには早く、青さを残した光が店内の白いクロスに反射している。椅子は整然と並び、グラスは光を受けて静かにきらめいていた。
扉を押して入ってきた春彦は、軽く息を整えながら更衣室へ向かい、制服に着替える。
数分後――
「おはようございます」
ホールに戻ると、オーナーがカウンター越しに顔を上げた。
「お、春彦。早く来てくれて助かったよ」
「いえ、大丈夫です」
短く頭を下げる春彦。その視線の先では、正美が無言でテーブルクロスを伸ばしていた。
「おはようございます、正美さん」
「んー、おはよ」
気だるそうに片手をひらひらさせるだけの返事。だがその手は止まらない。クロスのしわを指で伸ばし、ナイフとフォークの角度を揃えていく。
春彦もすぐに隣のテーブルに入り、同じ作業を始めた。
「今日、予約どんな感じっすか?」
「んー、そんなでもない。まあ、ほどほどってとこ」
「そうっすか」
カチャ、カチャ、と食器の音だけが静かな空間に響く。まだ客の気配はない。
一通り準備が終わり、二人は一息つくようにカウンター近くに立つ。
「春彦くん、今日早いね」
「オーナーに呼ばれて」
「あー、やっぱりね」
正美はそう言って肩をすくめる。
「今日、他誰入るんすか?」
「絵美と卓馬と、るり子」
「……あ、そうなんすね」
正美がニヤリとする。
「ねえ、気づかない?」
「え?何がっすか?」
「祥子と健司、今日どっちも休み」
「シフトじゃないっすか?」
「バカねえ」
正美は鼻で笑う。
「あの二人、絶対付き合ってるから」
春彦は内心でため息をつく。また始まった、と思う。
「出勤も休みも一緒。これで何もないと思う?」
「たまたまじゃ…」
「違うって。祥子が健司の下宿に入り浸ってるって噂よ?今ごろ二人で――」
正美はわざとらしく声を潜め、ニヤニヤしながら言う。
「気持ちいいことしてんじゃない?」
春彦は無言でグラスを拭く。
「……で、あんた彼女いるの?」
「……いないっす」
見栄を張りたかったが張れなかった。
「何人くらい付き合った?」
「……ゼロっす」
正美の手が止まる。
「え、マジで?」
少し驚いた顔。
「頑張りなさいよ、もう」
「……はあ」
「好きな子はいないの?」
その瞬間――
春彦の脳裏に、白いカウンターの向こうに立つ彩子の姿が浮かぶ。
無機質な目元。無愛想な声。それでも、確かに惹かれている。
「……今はいないっす」
わざと視線を逸らして答える。
「ふーん」
正美は納得していない顔で肩をすくめた。
春彦は逆に問い返す。
「正美さんは、彼氏いるんすか?」
正美はため息をつく。
「いない」
「……じゃあ、気になる人は?」
少しだけ間を置いて、正美は口元を緩めた。
「いるよ」
「誰っすか?」
「卓馬」
その名前が落ちた瞬間、春彦の頭の中で何かが繋がる。
「付き合いたいんすか?」
「そりゃね。でもさあ」
正美は腕を組んで、天井を見上げる。
「いきなり告白しても無理なのよ」
「……え?」
「恋愛ってね、“好きにさせてから”告白するの」
春彦は思わず手を止める。
「気になってる相手とか、好きな相手から告白されるからOKするの。順番があるのよ」
「……」
「今、そこまで持っていってる途中。でもデートに誘ってもOKしてくれないのよね」
悔しそうに舌打ちする正美。
「でもデートさえできれば、絶対落とせる自信ある」
その言葉を聞いた瞬間――
春彦の中で、何かが閃いた。
――そうか。
――“きっかけ”さえあればいい。
ノートで強制的に気持ちを変えるんじゃない。
デートという状況を作る。
そこで本当に好きにさせれば――
4時間が過ぎても関係は消えない。
心臓がドクンと大きく鳴る。
(……使える)
春彦はゆっくりと顔を上げる。
「今日、卓馬さんいますよね」
「いるよ」
「じゃあ、チャンスじゃないっすか」
「……あんた、急に積極的ね?」
正美が怪訝そうに目を細める。
春彦は一歩踏み込む。
「実は……俺、面白いもの持ってるんです」
「なにそれ?」
「魔法のノートです」
一瞬の沈黙。
そして――
正美は吹き出した。
「ははっ、何それ!小学生?」
「本当っすよ。そのノートに書いたこと、全部叶うんです」
わざと大袈裟に言う。
正美は笑いながら首を振る。
「非科学的すぎ。あんた、そういうの信じるタイプ?」
(……よし)
春彦の中で確信が生まれる。
――この反応なら、仮に叶っても疑わない。
「試してみます?」
「えー?」
笑いながらも、少し興味を示す正美。
「書くだけでいいんです」
「……まあ、あんたがそんなに言うなら、書いてあげる」
軽いノリの返事。
だが春彦の内心は一気に熱を帯びる。
(よし……!)
しかし、すぐに冷静になる。
――今はダメだ。
――4時間の制限がある。
「じゃあ、書くのは……バイト終わってからにしません?」
「なんで?」
「……その方が、効き目出やすいんで」
適当にごまかす。
正美は怪訝そうにしながらも、
「まあいいけど」
と肩をすくめた。
「じゃあ、終わってからね」
「はい」
その瞬間――
春彦の口元が、わずかに歪む。
(これで試せる……)
静かな店内に、まだ誰も知らない実験の気配が、ゆっくりと広がっていった。




