20. 花束とパトカー
電車のドアが閉まる。
ガタン、と鈍い音とともに車両が揺れ、春彦の体もわずかに揺れた。
吊り革を握る手に、じっとりと汗が滲んでいる。
(あいつ……また行く気だ……)
頭の中で、大原のニヤけた顔が何度も再生される。
花束を抱えて、自信満々に笑っていたあの写真。
「今日凸します」
その一言が、何度も頭の中で反響する。
(前回、あれだけ拒否されて……それでも行くのかよ……!)
歯を食いしばる。
車窓の外の景色が、やけに遅く流れている気がした。
(次こそ通報だろ……いや、それはどうでもいい……)
拳を握る。
問題はそこじゃない。
(彩子が……嫌になって辞めたらどうする……?)
胸の奥が、ギリ、と締めつけられる。
あの無愛想で、でもどこか気になる目つき。
パソコンに向かう横顔。
消毒していた指先。
(あの場所から、いなくなる……?)
それだけは、絶対に嫌だ。
電車が減速する。
アナウンスが流れる。
やっと、駅だ。
ドアが開いた瞬間、春彦は人をかき分けるように外へ出た。
ホームを歩きながらも、思考は止まらない。
(どうやって止める……?)
階段を駆け上がる。
(直接言う?無理だ。あいつ聞く耳持たない)
改札を抜ける。
(彩子に伝える?いや、それこそ不審者だ……通報される)
外へ出る。
日差しが目に刺さる。
(ノート……使うか?)
一瞬、足が止まりかける。
(「大原が告白しない」って書く……?)
だが、すぐに首を振る。
ダメだ。
(4時間だけだ……今日止めても、明日また来る)
それに――
(一回しか使えないノートを、そんなことに使うのか……?)
胸の奥で、葛藤がぶつかり合う。
(……じゃあ、どうする……)
歩きながら、呼吸が荒くなる。
その時だった。
ふと、閃く。
(……警察)
足が止まる。
(そうだ……警察に言えば……)
前回の光景がよみがえる。
彩子の、明らかに迷惑そうな表情。
距離を取る仕草。
(あれは……完全にアウトだろ……)
スマホを取り出す。
手が震えている。
(……やるしかない)
通話ボタンを押す。
呼び出し音。
数秒が、やけに長い。
「はい、警察です」
声が繋がる。
春彦は、息を吸い込んだ。
「すみません、緊急です」
声が少し上ずる。
「どうされました?」
「すみれ薬局っていうところに……ストーカーが向かってます」
自分でも、言葉が速くなっているのが分かる。
「特徴は?」
「太ってて……花束持ってて……」
「今、現場にいますか?」
「分かりません……でも、向かってるか……もう着いてるか……」
一瞬、言葉に詰まる。
そして、強く言った。
「とにかく、早く行ってください」
沈黙。
「分かりました。確認します」
通話が切れる。
耳からスマホを離す。
心臓が、ドクドクと鳴っている。
(……頼む)
そのまま歩き続ける。
やがて、見えてくる。
すみれ薬局。
春彦は少し離れた位置で立ち止まる。
ガラス越しに中を覗く。
――いた。
彩子。
カウンターの中で、パソコンに向かっている。
その姿を見た瞬間、胸が少しだけ軽くなる。
(よかった……)
だがすぐに、不安が押し寄せる。
(……まだ、来てないだけだ)
周囲を見渡す。
大原の姿はない。
(警察……本当に来るのか……?)
スマホを取り出す。
あの写真をもう一度見る。
花束を抱えた、あの忌々しい笑顔。
(……ふざけやがって)
時間を見る。
15:00。
(遅い……)
焦りが増していく。
その時だった。
遠くの通りに、異様なシルエットが現れる。
――タキシード。
――花束。
――太った体。
大原だ。
間違いない。
顔が、ニヤけている。
まるで成功を確信しているかのような歩き方。
(……来やがった)
春彦の喉が乾く。
(警察……まだかよ……!)
大原が、どんどん近づいてくる。
あと数十メートル。
あと数歩で、薬局の前。
その瞬間。
建物の影から――
スッ、と二つの影が現れた。
制服。
警察官。
大原の前に、立ちはだかる。
「……え?」
大原が、明らかに動揺する。
警察官が何かを問いかける。
大原は慌てて首を振る。
手を大きく振って否定している。
警察官は冷静だ。
「身分証をお願いします」
大原がしぶしぶ財布を出す。
確認。
さらに、花束や持ち物もチェックされる。
大原の顔が、みるみるうちに青ざめていく。
(……効いてる)
警察官が何かを告げる。
任意同行。
大原は首を振る。
拒否。
だが、もう一人の警官が一歩前に出る。
圧が変わる。
大原が観念したように、肩を落とす。
そのまま、連れて行かれる。
角を曲がる。
そこに――
パトカー。
影に隠れて見えなかっただけだった。
ドアが開く。
大原が乗せられる。
赤色灯は点かない。
静かに、ゆっくりと発進する。
そのまま、視界から消えた。
静寂。
春彦は、その場で大きく息を吐いた。
「……はぁ……」
全身の力が抜ける。
(……助かった……)
心の中で、小さく呟く。
(ごめんな、大原)
だが、それ以上に――
(……よかった)
彩子の姿を、もう一度見る。
変わらず、そこにいる。
それだけで、十分だった。
(これで……諦めてくれればいいけど……)
願う。
そして――
意識が、また別の方向へ向かう。
(……ノート)
カバンに手を入れる。
取り出す。
開く。
枚数を数える。
……指が止まる。
15枚。
(……減ってる)
さっきより、さらに。
2枚。
(……ヤバい……)
心臓が、再び速くなる。
(どうする……?)
考えが渦巻く。
(このままじゃ……全部消える……)
(でも……いきなり自分で使うのは……)
頭に浮かぶのは、さっきの光景。
堀田。
4時間後の崩壊。
(……あれはダメだ)
(絶対に、ああはなりたくない)
気づけば、足は駅へ向かっていた。
時計を見る。
15:00過ぎ。
(……あ、バイト……)
18時からのはず。
その時――
スマホが鳴る。
画面を見る。
オーナー。
(……なんだ?)
通話に出る。
「もしもし」
『春彦くん?悪いんだけどさ』
少し焦った声。
『今日、一人休み出ちゃってさ。16時から入れない?』
一瞬考える。
だが、特に予定はない。
「……大丈夫です」
『助かる!ありがとう!』
少し間を置いて、春彦が聞く。
「今日、自分一人ですか?」
『いや、正美くんもいるよ』
その名前を聞いた瞬間――
春彦の中で、何かが繋がる。
(……正美さん)
いつも男の話ばかりしている、あのフリーのバイト。
(……もしかして)
胸の奥で、別の可能性が芽を出す。
「実験」
ノート。
まだ分かっていないルール。
(……試せるかもしれない)
足が、自然と速くなる。
駅へ向かう歩調が、明らかに変わる。
春彦は、次の一手を考えながら、駅へと急いだ。




