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願いが一つだけ叶うノートを手にした僕は、あのツンツンした薬剤師に使うべきか迷っている  作者: 播磨 颯太


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19/47

19.願いの終わり、現実の地獄

教室の空気が、ひとつの異物によって歪んだ。


ざわ…と、波のように広がる視線。その中心にいるのは、顔を腫らし、唇を切り、血の跡を乾かしたまま立つ男――堀田だった。


奈津子が振り向く。


その瞬間、彼女の瞳が大きく見開かれる。手が口元へと上がり、息が止まったように固まる。


「……え?」


かすかな声。だがそれ以上は続かない。


少し離れた位置で、それを見ている春彦の喉が、ひくりと鳴る。


(来た……)


堀田は、腫れ上がった頬を歪ませながら、それでも笑顔を作ろうとする。


「やあ」


軽い。場違いなほどに軽い一言。


奈津子は、動かない。


完全に固まっている。


堀田は一歩、距離を詰める。


「オレ、誰かわかる?」


返事はない。


視線だけが、困惑と警戒を混ぜて揺れている。


堀田は、焦れたように言葉を重ねた。


「顔、ひどいから分かんないか。オレだよ、堀田」


奈津子の隣にいた友人が、そっと身を寄せる。


「奈津子……あの、同じ学部の……堀田っていたじゃん」


小声のささやき。


奈津子の眉が、わずかに動く。


「あ……」


記憶の断片が繋がったような反応。しかしそれでも、彼女の体はまだ硬直していた。


友人は、明らかに不快そうな目で堀田を見ている。


堀田は、それに気づいていないのか、あるいは無視しているのか――胸を張った。


「分かった?君の彼氏の堀田」


その言葉が、空気を凍らせた。


一瞬、沈黙。


そして――


「は?」


奈津子の友人が、素っ頓狂な声を上げる。


「ちょっと、奈津子……こいつと付き合ってんの?」


奈津子は、はっとしたように首を振った。


ぶんぶん、と強く。


「ち、違う……!知らない……!」


その声は、明確な拒絶だった。


堀田の顔が、一瞬で強張る。


「……は?」


理解が追いつかない顔。


「何言ってんだよ。オレと付き合ってるんだろ?」


奈津子は、さらに後ずさる。


「違います……本当に、知らないです……喋ったこともないし……」


その言葉は、完全な否定だった。


――その時。


春彦の中で、何かがカチリと音を立てた。


(まさか……)


腕時計を見る。


13:20。


背筋を冷たいものが走る。


(効力……切れてる……!)


5分前。


すべてが、元に戻った。


だから奈津子は、今こうして「何も知らない」顔をしている。


しかし――


その事実を、堀田に言うことはできない。


絶対に。


ノートの秘密は、誰にも知られてはいけない。


堀田は混乱したまま、なおも食い下がる。


「おい、何で分からないんだよ!君の彼氏だって言ってんだろ!」


「やめてください!」


奈津子の声が、強くなる。


友人が一歩前に出て、堀田を睨みつける。


「あんた、しつこいって。知らないって言ってるでしょ。どっか行きなさいよ」


教室の空気が、一気に敵意を帯びる。


ざわざわと周囲の学生たちが距離を取り始める。


(まずい……)


春彦は一歩踏み出した。


「堀田、もういい、行くぞ」


低く、しかしはっきりとした声。


堀田は振り向く。


納得のいかない、ぐちゃぐちゃの表情。


「……なんでだよ……」


春彦は、奈津子たちに軽く頭を下げた。


「すいません」


それ以上は言わない。


言えない。


そして堀田の腕を掴む。


「行くぞ」


引っ張る。


抵抗は弱い。


堀田は、半ば引きずられるように教室を出た。


廊下に出た瞬間、堀田が声を荒げる。


「なんでだよ!!」


拳を握りしめる。


「さっきの奴ら、奈津子も認めてるって言ってたじゃねえか!!」


春彦は目を逸らす。


「……そんなの、俺に言われても」


濁すしかない。


真実は言えない。


堀田の顔が歪む。


悔しさと痛みと屈辱が混ざり合い、涙がにじむ。


「ちくしょう……ちくしょう……!」


ぽろぽろと涙が落ちる。


「無駄にボコられて……あんなとこで恥かいて……!」


春彦の胸が、少しだけ痛む。


(……さすがに、これは……)


堀田が、にじり寄る。


「お前のせいだろ……!」


鋭い目。


だが春彦は、静かに返す。


「約束しただろ。叶わなくても恨むなって」


言葉が、刺さる。


堀田は、ぐっと歯を食いしばる。


何も言い返せない。


ただ、肩を震わせている。


「……今日は帰る」


ぽつりと呟く。


「もういい……」


そのまま、ふらつきながら歩き出す。


春彦は、その背中を見送ることしかできなかった。


静寂。


廊下に取り残された春彦は、ゆっくりと息を吐く。


(……やっぱり)


頭の中で整理されていく。


ノートの効力は、4時間。


そして――


「付き合いたい」と書けば、その瞬間から“付き合っている状態”が成立する。


だが。


4時間後には、すべてが消える。


跡形もなく。


記憶すら曖昧に。


(……ダメだ)


この使い方は。


絶対に。


彩子に使ったら――


同じことになる。


一瞬の夢。


そして、冷たい現実。


背筋が寒くなる。


その時だった。


ポケットの中で、スマホが震える。


ビクッと体が反応する。


画面を見る。


大原。


(……嫌な予感しかしない)


LINE。


開く。


表示されたメッセージ。


「今日凸します」


その直後。


画像が送られてくる。


開く。


――花束。


――そして、メッセージカード。


ズームする。


そこに書かれている文字。


「彩子へ」


ぞわっ、と鳥肌が立つ。


(あいつ……!)


また行くつもりだ。


あの空気も読めないまま。


あの拒絶を受けてもなお。


また、彩子に――


春彦の呼吸が荒くなる。


(もし……)


もし、彩子が耐えきれなくなったら。


もし、気味悪がって。


薬局を辞めたら――


(そんなの……)


そんなの、絶対に嫌だ。


気づけば、体が動いていた。


バッグを掴み、走り出す。


教室も、廊下も、視界から消えていく。


ただ一つの場所へ。


すみれ薬局へ。


春彦は、大学を飛び出した。

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