19.願いの終わり、現実の地獄
教室の空気が、ひとつの異物によって歪んだ。
ざわ…と、波のように広がる視線。その中心にいるのは、顔を腫らし、唇を切り、血の跡を乾かしたまま立つ男――堀田だった。
奈津子が振り向く。
その瞬間、彼女の瞳が大きく見開かれる。手が口元へと上がり、息が止まったように固まる。
「……え?」
かすかな声。だがそれ以上は続かない。
少し離れた位置で、それを見ている春彦の喉が、ひくりと鳴る。
(来た……)
堀田は、腫れ上がった頬を歪ませながら、それでも笑顔を作ろうとする。
「やあ」
軽い。場違いなほどに軽い一言。
奈津子は、動かない。
完全に固まっている。
堀田は一歩、距離を詰める。
「オレ、誰かわかる?」
返事はない。
視線だけが、困惑と警戒を混ぜて揺れている。
堀田は、焦れたように言葉を重ねた。
「顔、ひどいから分かんないか。オレだよ、堀田」
奈津子の隣にいた友人が、そっと身を寄せる。
「奈津子……あの、同じ学部の……堀田っていたじゃん」
小声のささやき。
奈津子の眉が、わずかに動く。
「あ……」
記憶の断片が繋がったような反応。しかしそれでも、彼女の体はまだ硬直していた。
友人は、明らかに不快そうな目で堀田を見ている。
堀田は、それに気づいていないのか、あるいは無視しているのか――胸を張った。
「分かった?君の彼氏の堀田」
その言葉が、空気を凍らせた。
一瞬、沈黙。
そして――
「は?」
奈津子の友人が、素っ頓狂な声を上げる。
「ちょっと、奈津子……こいつと付き合ってんの?」
奈津子は、はっとしたように首を振った。
ぶんぶん、と強く。
「ち、違う……!知らない……!」
その声は、明確な拒絶だった。
堀田の顔が、一瞬で強張る。
「……は?」
理解が追いつかない顔。
「何言ってんだよ。オレと付き合ってるんだろ?」
奈津子は、さらに後ずさる。
「違います……本当に、知らないです……喋ったこともないし……」
その言葉は、完全な否定だった。
――その時。
春彦の中で、何かがカチリと音を立てた。
(まさか……)
腕時計を見る。
13:20。
背筋を冷たいものが走る。
(効力……切れてる……!)
5分前。
すべてが、元に戻った。
だから奈津子は、今こうして「何も知らない」顔をしている。
しかし――
その事実を、堀田に言うことはできない。
絶対に。
ノートの秘密は、誰にも知られてはいけない。
堀田は混乱したまま、なおも食い下がる。
「おい、何で分からないんだよ!君の彼氏だって言ってんだろ!」
「やめてください!」
奈津子の声が、強くなる。
友人が一歩前に出て、堀田を睨みつける。
「あんた、しつこいって。知らないって言ってるでしょ。どっか行きなさいよ」
教室の空気が、一気に敵意を帯びる。
ざわざわと周囲の学生たちが距離を取り始める。
(まずい……)
春彦は一歩踏み出した。
「堀田、もういい、行くぞ」
低く、しかしはっきりとした声。
堀田は振り向く。
納得のいかない、ぐちゃぐちゃの表情。
「……なんでだよ……」
春彦は、奈津子たちに軽く頭を下げた。
「すいません」
それ以上は言わない。
言えない。
そして堀田の腕を掴む。
「行くぞ」
引っ張る。
抵抗は弱い。
堀田は、半ば引きずられるように教室を出た。
廊下に出た瞬間、堀田が声を荒げる。
「なんでだよ!!」
拳を握りしめる。
「さっきの奴ら、奈津子も認めてるって言ってたじゃねえか!!」
春彦は目を逸らす。
「……そんなの、俺に言われても」
濁すしかない。
真実は言えない。
堀田の顔が歪む。
悔しさと痛みと屈辱が混ざり合い、涙がにじむ。
「ちくしょう……ちくしょう……!」
ぽろぽろと涙が落ちる。
「無駄にボコられて……あんなとこで恥かいて……!」
春彦の胸が、少しだけ痛む。
(……さすがに、これは……)
堀田が、にじり寄る。
「お前のせいだろ……!」
鋭い目。
だが春彦は、静かに返す。
「約束しただろ。叶わなくても恨むなって」
言葉が、刺さる。
堀田は、ぐっと歯を食いしばる。
何も言い返せない。
ただ、肩を震わせている。
「……今日は帰る」
ぽつりと呟く。
「もういい……」
そのまま、ふらつきながら歩き出す。
春彦は、その背中を見送ることしかできなかった。
静寂。
廊下に取り残された春彦は、ゆっくりと息を吐く。
(……やっぱり)
頭の中で整理されていく。
ノートの効力は、4時間。
そして――
「付き合いたい」と書けば、その瞬間から“付き合っている状態”が成立する。
だが。
4時間後には、すべてが消える。
跡形もなく。
記憶すら曖昧に。
(……ダメだ)
この使い方は。
絶対に。
彩子に使ったら――
同じことになる。
一瞬の夢。
そして、冷たい現実。
背筋が寒くなる。
その時だった。
ポケットの中で、スマホが震える。
ビクッと体が反応する。
画面を見る。
大原。
(……嫌な予感しかしない)
LINE。
開く。
表示されたメッセージ。
「今日凸します」
その直後。
画像が送られてくる。
開く。
――花束。
――そして、メッセージカード。
ズームする。
そこに書かれている文字。
「彩子へ」
ぞわっ、と鳥肌が立つ。
(あいつ……!)
また行くつもりだ。
あの空気も読めないまま。
あの拒絶を受けてもなお。
また、彩子に――
春彦の呼吸が荒くなる。
(もし……)
もし、彩子が耐えきれなくなったら。
もし、気味悪がって。
薬局を辞めたら――
(そんなの……)
そんなの、絶対に嫌だ。
気づけば、体が動いていた。
バッグを掴み、走り出す。
教室も、廊下も、視界から消えていく。
ただ一つの場所へ。
すみれ薬局へ。
春彦は、大学を飛び出した。




