17.堀田 終わりの始まり
教室の空気が、まだ朝の鈍い眠気を引きずっている時間——9時15分。
春彦がカバンからノートを取り出した、その瞬間だった。
「貸せ!」
バッ、と奪い取るように堀田の手が伸びた。
「……おい」
低く押し殺した声。だが堀田はそんなことお構いなしに、ノートを開いている。
ページが乱暴にめくられる音。ペンを走らせる音。
——迷いがない。
「よっしゃ……」
そして、書いた。
“奈津子と付き合いたい”
その文字が、紙の上に刻まれた瞬間。
春彦のこめかみがピクリと動く。
(……こいつ……)
イラつきが、じわじわと胸の奥に広がる。
「返せ」
短く言い、春彦はノートを奪い返した。
堀田は一瞬驚いた顔をしたが、すぐにニヤリと笑う。
「サンキューな」
その笑いは、どこまでも下卑ていた。
春彦は何も言わず、ノートをカバンに押し込む。
——これで、発動した。
静かに、確実に。
だが——
(奈津子、どこにいる……?)
教室内にはいない。廊下にも気配はない。
制限時間は四時間。今から——13時15分まで。
その事実を、堀田は知らない。
だからこそ——あの顔だ。
「いやー、ついにか……」
椅子にふんぞり返りながら、勝手な未来を夢想している。
(バカが……)
春彦は冷めた目でそれを見ていた。
——授業が終わる。
時計は11時を指していた。
残り時間、2時間15分。
だが——
奈津子は、現れない。
「昼行くか?」
堀田が軽い調子で言う。
「ああ」
短く返す春彦。
二人は学食へ向かう。
ざわざわとした人の波。トレイのぶつかる音、笑い声、椅子の擦れる音。
その中で——
堀田の目だけが、獲物を探すように動いている。
「いねぇな……」
首をひねる堀田。
だが焦りはない。制限時間を知らないからだ。
むしろ、余裕すらある。
「もし付き合えたらさぁ——」
トレーを持ちながら、ニヤついた顔で話し始める。
「まずデートだろ?で、そのあと——」
「……」
春彦は聞いていない。
(ふざけんなよ……こんなやつが)
胸の奥に、どす黒い感情が渦巻く。
奈津子の姿は——どこにもない。
結局、食事を終えても何も起こらなかった。
——時間だけが、削られていく。
学食を出る。
外の空気は少し暖かく、だがどこか乾いていた。
「喫茶店でも行くか」
堀田が言う。
「……ああ」
二人は大学通りを歩き出す。
その時だった。
「おい」
低く、鋭い声。
二人は一瞬、自分たちに向けられたものだと気づかなかった。
だが——
「おいっつってんだろ!」
今度は明確だった。
振り向く。
そこにいたのは——
ガラの悪そうな男が四人。
くわえタバコ。だらしなく崩した服装。鋭い視線。
空気が、一気に重くなる。
リーダー格らしき男が一歩前に出る。
「……堀田って、お前か?」
堀田の顔が、一瞬で引きつった。
「え……あ、そうだけど……」
「てめぇ、ふざけんなよ」
低い声。だが、怒気がはっきりと滲んでいる。
「は?何が……?」
背後から別の男が吐き捨てる。
「とぼけんなコラ」
「いや、マジで分かんねぇって!」
堀田の声が震え始める。
リーダー格が一歩近づく。
「ちょっと顔貸せや」
腕を掴もうとする。
「ちょ、ちょっと待ってくれって!」
堀田が抵抗する。
「何のことなんだよ!」
その問いに——
男は、ゆっくりと顔を歪めた。
そして、吐き捨てるように言う。
「てめぇ……奈津子に手ぇ出しやがったな」
——ゾクッ。
春彦の背筋に、冷たいものが走った。
(……まさか……)
願いが、動いた。
だがそれは——予想していた形ではなかった。
堀田は完全に青ざめている。
「は……?何言って……」
言葉が続かない。
そして——
助けを求めるように、春彦を見る。
その目は、怯えと混乱でぐちゃぐちゃだった。




