16.堀田の願い
朝のざわめきがまだ完全に立ち上がりきっていない講義室。カーテンの隙間から差し込む淡い光が、長机の上に斜めの影を落としている。時計は九時を少し回ったところ。人のまばらな空間に、紙をめくる音や椅子の軋みが乾いた空気に溶けていた。
その一角、窓際の席に春彦は座っていた。頬杖をつき、ぼんやりと前を見つめているが、頭の中は静かではない。
——あのノート。
カバンの中にあるそれの存在が、まるで心臓の鼓動と同調するかのように意識を占領していた。
一回だけ叶う願い。しかも——最初の一つだけ。
検証はまだ足りない。だが、確信に近い感覚がある。
それでも——まだ決定打が欲しい。
その時だった。
「よぉ、春彦。探したぞ」
不自然なくらい明るい声。振り向かなくても誰か分かる。
春彦はゆっくり顔を上げる。
「……堀田か」
そこには、妙に取り繕った笑顔の堀田が立っていた。普段この授業に顔を出さない男が、教科書も持たずに立っている時点で——理由は一つしかない。
「いやー、たまには出とこうと思ってさ」
白々しい。
春彦は短く息を吐き、「ふーん」とだけ返した。
堀田は隣の席に腰を下ろす。椅子がギシリと音を立てた。
しばらく、どうでもいい話が続く。天気の話、単位の話、誰が来てないとか——。だがどれも、本題を避けているだけの薄っぺらい会話だ。
春彦は内心で舌打ちする。
——さっさと言えよ。
だがあえて口には出さない。こちらから話題を振る気はない。
沈黙が訪れる。
空気が、じわりと重くなる。
堀田がチラリと春彦の顔を窺う。視線が泳いでいる。
そして——
「……あのさ、昨日言ってたやつなんだけど」
来た。
春彦はわざと首を傾げる。
「昨日?何の話だよ」
「いやだから……ノートだよ、願いが叶うってやつ」
「あぁ……あれか」
わざとらしく思い出したふりをする春彦。その態度に、堀田は一瞬だけ苛立ちを見せたが、すぐに引っ込めた。
「持ってきてくれたのか?」
その声には、抑えきれない期待が混じっている。
春彦は少し間を置いてから、ゆっくりと頷いた。
「まぁな」
そしてカバンを開け、ノートの端をほんの少しだけ覗かせる。
堀田の目が、一瞬で食いついた。
「お、おい……それなのか?!見せてくれよ」
「今はダメだ」
ピシャリと言い切る。
堀田は一瞬言葉に詰まり、「なんでだよ」と不満げに言う。
春彦は視線を細めた。
「で、何に使うつもりなんだよ」
核心。
堀田は一瞬だけ周囲を気にし、身体を寄せてきた。
「……耳貸せ」
春彦は少しだけ顔を近づける。
堀田の声が、ひそひそとした湿った音で耳に落ちる。
「女だ」
その一言。
——ドクン。
春彦の心臓が、嫌な音を立てた。
まさか。
脳裏に浮かぶのは、あの薬局の白衣の女。
鋭い目つき、無愛想な声、だがどこか引っかかる存在——彩子。
(……まさか、こいつもか?)
春彦の喉が、わずかに乾く。
「女関係でも叶うのか?」
堀田が続ける。
「知るかよ」
即答。
だが内心は違う。
——叶っている。
雨が止んだ。
世界平和(結果はまだ不明だが)。
満塁ホームラン。
アライグマラクーンの1着。
全部、現実になっている。
堀田はさらに顔を近づける。
「奈津子って知ってるか?」
春彦は一瞬だけ目を見開く。
「ああ……知ってる」
学部でも有名な美人。
誰もが遠巻きに見るだけの存在。
「俺さ……あいつと付き合いてぇんだよ」
ニヤリと歪んだ笑み。
春彦の背筋に、ぞわりと寒気が走る。
(……こいつが?奈津子と?)
あり得ない。だが——
もし叶ったら?
その瞬間、思考が別の方向へ跳ねる。
——もし四時間経っても続いたら?
——もし本当に関係が成立したら?
それはつまり——
彩子にも使える。
春彦の喉が、ごくりと鳴った。
だが同時に、強い嫌悪も湧き上がる。
(こんなやつが奈津子と……ふざけんな)
そしてもう一つ。
——四時間後。
魔法が解けたように、関係が消えるのか。
それとも——
残るのか。
ここが、最大の分岐点だ。
春彦は低く言った。
「いいか、もし何も起きなくてもオレを恨むな」
堀田はうんうんと頷く。
「それと、このノートのこと、誰にも言うな」
「分かってるって!」
だがその顔は、まるで子供が宝物を前にした時のように緩みきっている。
今にもよだれを垂らしそうな勢いだ。
「早く貸してくれよ」
食い気味に迫る声。
春彦は一瞬だけ躊躇する。
——ここで貸すのか?
だが。
これは実験だ。
そして——チャンスでもある。
春彦はゆっくりとカバンに手を入れた。
指先が、ノートの表紙に触れる。
その感触は、妙に冷たかった。
静かに、ノートを取り出す。




