第六話 本音で本当のことしか言えない即興劇・2
全員が車に乗り込むと、早朝にイヴァノフの街を出発した。
動く車は、まずはぬかるんだ悪路を突き進み、旧時代の国道を目指している。
オレたち三人が、旅人としてイヴァノフに来るとき、泥道を踏破するのには、徒歩で丸一週間かかったものだ。
いくら車でも、これだけ歩きにくい道は苦労するはずだと思っていたが……座席が多少揺れるだけで、そこまで苦労している様子はない。
気づけばすぐに森を出て、旧時代の国道へとスムーズに入ってしまった。
……もう終わったのか。寂しいくらい、あっという間だったな。
あれだけ何日も野営して、苦労して歩いた旅路だったと思うと、少し切ないな。
そんなことを考えていると、運転席のエイダンが、急に車のスピードを上げた。
「あっ! ちょっと揺れるから、皆んな気をつけてね!」
何があったんだ?
オレは後部座席から身を乗り出し、前方を見てみた。
アスファルトの進路上には、リビングデッドが数体、立ちはだかっている。
ぶつかる――と思ったときには、車体が大きく振動していた。
その拍子に、オレは天井に頭をぶつけた。
「あははっ! だから米沢、『気をつけて』って言ったじゃないか!」
「なるほど。『気をつけろ』って、こういう意味だったか……いい勉強になった」
オレは後頭部をさすり、後部座席に深く腰をおろした。
本当に頼もしい乗り物だな。馬と違って、車はリビングデッドに怯えないから、こんな強引なこともできるのか。
それを思うと……もしもオレたちの旅に、動く車さえあればと考えずにはいられない。
ただ唯一の欠点は、油を食うことか。
……なるほど。車や列車持ちの消息代理人が、恥知らずなほどがめつい理由がわかった。他でもなく奴らが、車や列車を持っているからだ。彼らの旅には、死ぬほど油が必要になる。
妙に納得がいって、ため息がこぼれた。
動く車は、夢のまた夢どころか、夢を見ることさえ許されない。消息代理人のくせに義理堅く生きたいと願うからには、油を食う機械には、憧れさえも抱けない。それが自分のゲンジツだと気づいてしまった。
***
車内で聴いているラジオから、午前十時の時報が流れた。
ラジオは小粋なギャグ満載のトーク番組から、大人向けの音楽番組に切り替わった。「人生の苦味を五線譜にこめた、クラシック音楽の名曲」という紹介が流れると、オレの左隣にいるリオは、落ち着きなく視線を動かし始めた。
どうやらこの子は、暇になってきたようだ。
案の定、リオはおもむろに手帳を取り出すと、偉そうに作戦を確認し始めた。
「僕たちが突破しなきゃならない検問は、全部で四つだ。さっき無事に、一つ目を突破できた。けど四番目の検問が、一番の鬼門になると思う。そのこと、皆んな、覚えてて」
そこがニューケンブリッジの正面玄関らしい。
それを聞いて、ふと疑問を抱いた。
「や……四番目の検問で、ニューケンブリッジに入るんだろう? だったらそこがゴールじゃなくて、そこから折り返しが始まるんじゃないのか?」
ただ、助手席に座っているニーナは、振り向いてオレを見た。
「米沢さん、実はニューケンブリッジの検問って、街に近づく『上り検問』だけが厳しいんです。『下り検問』は素通しに近いの。だから四番目の検問さえ突破しちゃえば、あとはシドロヴァまで凱旋走行みたいなもんです」
なるほど。そういえば、最初の検問を離れる直前、助手席のニーナが紙切れを受け取っていた。あれは上り検問を正式に通過したという、証明書だったらしい。
先ほど実際に検問を突破してみて、オレなりにわかったことがある。
検問では、きっかり一時間、尋問を受ける。
ただし尋問の内容に、恐らく大した意味はない。
最初の検問では、途中でラジオの時報が流れたとたん、検問官は話を打ち切ってしまった。「ああ、一時間経ったし、もういいよ」と言って、あっさり検問を通してくれた。
つまりこれは、一時間の経過観察だ。
一時間、まともな受け答えを続けられるか――そこだけを見られている。
尋問の最中、誰かが急に暴れだしたり、あるいは仮死状態に陥れば――その場で感染者と認定され、射殺される。
つまり尋問中、ラウルが変なことさえ起こさなければいいわけだ。検問を突破する上で、他に障害はない。
問題は、唯一の障害が、特大の不安要素を抱えていることだ。
「ラウル、今のところ調子はどうだ?」
オレは軽く様子を尋ねてみた。
右隣に座っているラウルは、窓に頬杖をついて景色を眺めている。窓を全開に開いているから、激しく吹き込む風が、癖毛な栗毛をゴウゴウと揺らしている。
「別に……こうやって風に当たってりゃ、けっこう余裕だな」
その声は明瞭だ。
ただ、彼の匂いから察するに、体力にあまり余裕はない。
だがそのとき、車内で流していたラジオから天気予報が流れた。
「ねえラウル。そろそろ窓、閉めてくれない?」
助手席にいるニーナが、振り向きもせず、ラウルにそう求めた。
「はあっ? いや、勘弁しろよニーナ!」
「勘弁も何も、当然でしょ? もうすぐ雨が降るみたいだし、車って錆びが天敵なの!」
「何だよそれ……車のシートにかかる雨なんて、大して関係ねえだろ……」
ラウルはそんな文句を言いつつも、面倒くさそうに窓ガラスを手動で閉じ始めた。
風が止んだ。
急に静かになった。
荷室に座り込んでいるベッケンバウアーが、聖書をめくるたびに、ペラリと高い音が鳴っている。
マズいな。車内の空気は、じわじわと人間の匂いが濃くなっていく。
こうなると、オレも擬態を維持するのに、かなり負担を感じる。
今はマフラーを巻いていないから、直に匂いを感じる。
それにしても――本当に、美味しそうだ。
頭がクラクラする。
みずみずしい獲物の匂い。
若くて、健康で、油断している人間だ。
あれを食い物にできたらと考えるだけで、よだれがこぼれそうだ。
いや――そんなことを、今、考えるべきじゃない。
興奮すればするほど、抑えるのが苦しくなるんだ。
何か、別のことで、気を紛らわせよう。ラウルに声をかけてみた。
「ラウル……平気か?」
「……」
「ラウル」
明らかに、平気じゃない。
車が振動するたびに、ラウルの頭がグラついて、額から汗が散っている。
どうやら、オレ以上に状態が悪い。
すでに意識が朦朧としているようだ。
オレのマフラーを貸したとはいっても、この車内には、人間が三人もいる。獲物の匂いを嗅ぎすぎて、体力をどんどん消耗している。
ラウルはうろんな目で、ボアジャケットのポケットから何か取り出した。
「よ、米沢……頼、む……」
それは、あの細長い木片だった。
彼が地下室に監禁されていたとき、なぜか御守りのように握りしめていた、用途不明の曲線を描いた、ただの木片だ。
ラウルはそれを握りしめるとーー心の支えにするように胸に押し当て、奥歯をギリギリと噛み締めている。
「……ウ……グウゥ……ゥ……」
何か言おうとしているのか? だが、とても聞き取れる言葉になっていない。
「すまない、もう一度、ゆっくり言ってくれないか?」
「ッ……ゥ……」
すると彼は、ゆるゆると左手を差しだした。
激しく震える手で、次々と指の形を変え、メッセージを伝えてくる。
――俺が、正気、失ったとき、
ーー頼む、誤魔化して、くれ。
それは、ヘレンが生身だったころに使っていた手話だった。
オレもラウルも、ヘレン型のリビングデッドだ。オレたちはヘレンから教わった通り、手話を使ってコミュニケーションがとれる。
ただ――ラウルは通常種じゃない。擬態種だ。
言葉を話せるはずの彼が、まるで通常種のように手話を使ったとなると――。
直後、車の外で、雷鳴が弾け――激しい雨が、降りだした。




