第五話 北北西を東に取れ・4
そのアイディアが出た瞬間、依頼人のエイダンとニーナは、驚き顔でリオを見た。
「ねえ……それがいいよ! 皆んなでそう言ってみない!?」
リオが顔を上げた。その目には、あの子らしい怖いもの知らずな希望が満ちている。
「だって、僕たちの目的地は、シドロヴァじゃん! ちょうどあの街って、FTL放送局のお膝元だ。だったら、声優志望のお兄さんが通りかかるなんて、ごくごく自然だよ!」
ただ、依頼人のニーナは――残念ながら、明確に難色を示している。
「ゴメン、リオちゃん。確かに、すごくステキなアイディアだと思うけど……ちょっと、現実的じゃ……」
ニーナはマグカップに口をつけたあと、軽く口を結んだ。
それでも申し訳なさそうに、とつとつと意見を述べだした。
「さすがに、すぐバレちゃうと思うな……確かラウルって、お芝居のお稽古なんて、やったことないはずよ。そもそも声優志望ですらないって、誰だって簡単に……」
だが、安楽椅子を揺らしていた博士が、はたと手を止めた。
「おやぁ? リオちゃん、てっきりラウルくんとやらは、通常種だとばかり思っていたがぁ……違ったのかい?」
「うん。僕も見てきたけど、ラウルさんはミミックーって種類だったよ」
「ホゥ……」
博士は口に咥えたキャンディを回すと、何か納得したようにうなずいている。
「フム……意外と悪くない偽装身分になるやもしれん……」
ベッケンバウアーが、急に椅子から立ち上がった。
博士がゆったりと歩むたびに、赤黒のバッシュが、靴底のゴムを鳴らしていく。
「ラウルくんがミミックであるならばぁ、話は別さぁ。私もリオちゃんの意見に賛成だよぉ。ミミックの擬態能力を活用する道は、前向きに検討すべきである……」
するとニーナは首をかしげて、リオにぽつりと問いかけた。
「えっと……あの、すごく初歩的な質問で申し訳ないんだけど……リオちゃん、ミミックって、何?」
「あっ、ごめんごめん! そういえばニーナには、まだ紹介してなかったっけ?」
リオがベッドから顔を出し――オレと博士を笑顔で見比べてきた。
いや。
まさか。
まさかとは思うが。
まさかそんなこと――。
「実はね、僕のニイサンとネエサン、ミミックーって種類のリビングデッドなんだ!」
それを聞いて――頭の中が、真っ白に吹っ飛んだ。
反射的に――懐の拳銃を握り締め――ざっと部屋を見回した。
この部屋にいるミミックは、二体。だが人間は、三人いる。
敵の方が、圧倒的に優勢だ!
不利だ。無理だ。状況が逆転した。
今すぐ自死しないと、手遅れになる!
オレの脳裏に、これまで人間の手で捕獲されたミミックの最期が、走馬灯のように駆け巡る。寄生虫が何十年という経験の中で耳にした、冷たい言葉ばかりが聞こえてくる。
――こんな恐ろしい変異種がいたとは知らなかった。
――貴重な被検体だ。なるべく有効活用しよう。
――人類が生き残るためには……仕方あるまい。
人間は、本当に、恐ろしい生き物だ。
今まで同じ人間のように接してくれたはずなのに、正体がミミックだと知った瞬間、態度がガラリと変わる。「同じ人間じゃないなら、これは残虐行為には当たらない」と言い出すんだ!
こうなってしまったら、もはや、どうすることもできない。
一刻も早く命を絶つしかーー。
「よ、よよよよ米沢さんって、り、リビングデッドだったの!? わ、私、さっき、もらったお茶、飲んじゃったけど……まさかこれってぇっ!?」
ニーナは金属製のカップを取り落した反動で、自分のスカートに足を引っかけ、後ろにすっ転んでいく。
オレはその反応を見て――少し、思いとどまった。
ひょっとしてあの人間は、直ちにミミックを捕獲しようとは考えていないのか?
だとしたら、この状況は……まだどうにか誤魔化す道が、あるかもしれない。
オレは恐怖をこらえ、懐から銃を手放し――ニーナに冷めた目を向けた。
「いや……別にパニックを起こすのは、人の勝手ですけど……少しは後片付けのこと、考えてくれませんか? あーあ、お茶が……」
オレは全神経を集中し、全身全霊の力をこめ――肩の力を抜いた。
だるそうな足取りで、なるべく相手を刺激しないよう、歩み寄ろう。
「リオ、ちょっとどいてくれ。そのシーツと毛布カバー、早く洗わないと……」
だが、ベッドに手を伸ばすと、後ろに座り込んでいるニーナが叫びだした。
「で、ででででも、米沢さん、が……り、りりりリビング、デッド……!?」
オレは、息が震えないよう細心の注意を払いつつ――ため息を聞かせた。
「ええ……リビングデッドですよ。ですが別に、人は襲わないんですから、なんでそこまで驚きますかね……うわ、このシーツ、早く洗わないと、染みになりそうだ。色の濃いお茶なんて、出すんじゃなかったな……」
オレはニーナに背を向けたまま、シーツを剥ぎ取るのに忙しい素振りを見せた。
ただ――手が震えて、なかなかシーツのチャックが、掴めない。
ひどい寒気がする。歯がガチガチと鳴りだすのがこらえきれないほど――寒い。
「り、りりりりリビングデッドが、ひ、人を襲わない? そ、そそっ、そんなの、あり得ない、あり得ないわ!」
そうだ。
その通りだ。
確かに、何も反論の余地はない。
人を襲わないリビングデッドなんていない。
オレはただ、人を襲わないフリを続けているだけだ。
バレてしまったからには、もはや一刻も早く、自死するしかない。
早ければ早いほどいい。手遅れになってからでは、取り返しがつかない。
だが、ナイフでは、手元が狂って、死に損じるかもしれない。
だから確実に、拳銃で――。
「大丈夫だよ」
その声が聞こえ――オレは、顔を上げた。
ベッドに座りこんでいるリオは、オレの目の前で、目を閉じて笑っていた。
この子は肌も髪も真っ白だから、目を閉じて笑っていると、何を考えているのか、何もわからない。
「……リ、オ……?」
オレが硬直していると、この子は目を閉じたまま、何気なく手を伸ばしてくる。
「大丈夫だよ」
胸元に、この子の手のぬくもりを、かすかに感じる。
そのままオレの懐から――銃を抜き取られた。
この子は拳銃に安全装置をかけると、毛布の下に隠してしまった。
だがオレはーー無理に取り戻す必要は、ないと感じた。
「……わかった……」
小声でそう伝えた瞬間、少しずつ寒気がおさまり、身体の震えが引いていく。
確かにオレは、人間に正体がバレたと知って、パニックを起こしていた。
だからリオは、大丈夫だと言っている。人間に捕獲される心配はないから、自死する必要はないと言っている。過去にどれだけのミミックが悲惨な最期を遂げたとしても、オレには関係ないことだから、大丈夫だと言っている。
ただ――この子に何の根拠があるのか、何ひとつわからない。
どうして大丈夫だと言えるのか、理解できたためしはない。
それでもオレは、この子の言葉を――。
このぬくもりを、手放せない。
オレはなるべく――背後で腰を抜かしたままのニーナにも聞こえるよう、うんざりした声を作ることにした。
「リオ……これで君も懲りただろう? そうやって勝手に、ヒトの身の上を言いふらすな。いつもいつも、あの手の面倒な言いがかりを受けるんだ……」
「えーっ? だーってニイサン、本当のことじゃん!」
「本当のことだからって、本当に言うなよ……」
「だってリビングデッドになったって、ちっとも恥ずかしいことじゃないよ?」
「はいはい……恥ずかしくない……恥ずかしくないねえ……いいよな、君は人間だから。オレは人間じゃないってだけで、見知らぬ人から殺されたって、何も文句は言えないっていうのに……」
嫌味っぽく言い残すと、そのままシーツを丸めて、キッチンへ引っ込んだ。
「リオ、ニーナさんへの事情説明は、あとは君がやってくれ。オレは向こうで、シーツを洗わないと……」
「はーい!」
オレはわざと重だるい足取りでキッチンのシンクに向かい、洗い桶に溜めてある水を使って、シーツの汚れを落とし始めた。
「あははっ、ごめんねニーナ、そーんな驚くなんて思わなくってさ! 平気、平気! 僕のニイサンとネエサンって、ほら、見ての通り! 絶対、人を襲ったりしないから!」
「そ、そうなの……?」
「そーんなの当たり前じゃん! だって僕、ずーっと二人にくっついて旅してるけど、一度も襲われたことないよ?」
「で、でも、まさかっ、り、リオちゃんも、こここ、こう見えて……?」
「ううん、僕は人間だよー。ほら、ニーナも僕のほっぺ、触ってみる? ちゃんとあったかいでしょ!」
「そっ……そうね……そうねっ! ちゃんとあったかいわ!」
そのときキッチンの外から、博士が命令口調で、オレに声をかけてきた。
「ところで米沢くん……ラウルくんは、感染から何年目の個体かねぇ?」
「恐らく五ヶ月」
「型はぁ?」
「ヘレン型」
「アァ、なるほどぉ……」
ベッケンバウアーは少し思案すると、再び安楽椅子に腰をおろした。
どうやら今の受け答えだけで、ラウルの現状を知るには十分だったようだ。
「ラウルくんが発作的に、どのような形で暴走を始めるか……こちらとしては、事前に予測はつかない。ならばこそ、その暴走を逆手に取ろう。彼をあえて暴走させ、『これぞまさに、真に迫る演者の演技である』と説明すればぁ……逆に説得力のある偽装身分になるだろう」
「はあっ!?」
ニーナは床にこぼしたお茶をハンカチで拭いていたが、驚き顔でベッケンバウアーを振り向いている。
オレはキッチンから顔を出し、博士が言いだした案を確認した。
「要するに……『人間の擬態が不得意なリビングデッド』を真逆にとらえて、『リビングデッドの擬態が得意な人間』だと主張するのか?」
「や、やっぱり、米沢さんも……さ、さすがに無理があるって……」
「ん、逆だ。現実的な擬態だと思う」
「ヘッ!?」
ニーナがオレを二度見した瞬間、彼女の黒縁メガネが、派手にズレた。
「ニーナさん、オレたちは元々人間とはいっても、今は身体の構造が、全然違いますよね。だからいくら外見だけ似せても、身体を動かせば『あ、ゾンビだな』って一目瞭然です」
「そ、そう……? そういうもん、なん、です、か……?」
「まあ、人間って本当に、人間らしさってものに目が肥えてるんですよ。少なくとも……ニーナさんが想像している以上に、オレは今、つらい思いをしてますよ」
するとニーナは、恐る恐る、こちらに疑問を投げてきた。
「じゃ、じゃあ、米沢さん……た、ためしに、何も考えないで、動いてみる、と……ど、どうなるん、ですか?」
オレはそのリクエストに応え――人間の擬態を止め、軽くうなずいた。
ああ、この動きに戻れると、だいぶ楽だ。
ところが彼女は、オレの動きを見るなり――短く悲鳴を上げた。
「……ま、元はゾンビなんですから、少しでも手を抜けばこういう動きになるのは、当たり前じゃないですか」
オレはありのままの自分という奴を封印して、人間らしい動き再開した。
「オレとしても、リオの考えには賛成だ。ラウルはもう、難しい擬態は維持できない状態だ。ただ、リビングデッドの役者に擬態する……それなら、負担は軽いはずだ。もし擬態が破綻しても、『これは芝居の演技だ』って話を合わせれば、何かと柔軟に対処できそうだ」
オレもまた、リオに賛成票を投じた。
ただ、とたんにニーナが血相を変え、うろたえだした。
「え、エイダン! ちょっと、止めに入って! 何のほほんと見守ってるの!」
「はははっ、大丈夫だよニーナ。何かあったときは、ぼくがついてるから!」
青髪の青年、エイダン・トカレフは、二段ベッドのはしごに寄りかかったまま、爽やかに笑っているだけだった。
反対もせず、賛成もせず、ただただ無責任に、微笑んでいた。
「精神医学では、いわゆる『恩赦妄想』という病像が知られている。
それと同じで、わたしたちも希望にしがみつき、最後の瞬間まで、事態はそんなに悪くないだろうと信じていた。」
――ヴィクトール・フランクル「夜と霧」