第五話 北北西を東に取れ・2
「こないだの騒ぎ……?」
オレが訊き返すと、エイダンは苦笑いを見せてきた。
「ほら、こないだ米沢がラウルに会ったとき……まあ、だいぶ大騒ぎしちゃったよね。ははっ、あれがよそに聞かれちゃってさ――」
先日、オレとリオはトカレフ家を訪問し、地下に監禁されていたラウルを発見した。あのとき少し荒事になり、ちょっとした騒ぎになったのは事実だ。
これまで周囲の人々は、「ラウルは流行り病が治らず、人と会えないほど弱っている」と思い込んでいたそうだ。
ところがあの日、ラウルの大騒ぎが周囲の耳に届いた。そして周囲の認識は、大きく変わった。「ラウルはエイダンと喧嘩できるほど元気になった」という認識に変わったのだ。
「いや、エイダン……事情はわかったが……それがどう転がれば、ラウルを車に乗せる話につながるんだ?」
「ははっ! 本当、ぼくの街って小さいからさ! ご近所さんって、お節介好きばっかりでね。ラウルが元気になったって知ったら、『じゃあ快気祝いしなきゃ!』って張り切っちゃって……皆んなぼくに向かって、シドロヴァへ連れて行け、連れて行けって……」
どうやら彼にとっては、窮地に追い込まれるほど劇的な変化だったらしい。
――あらまあ、よかったわ。ラウルがようやく、お元気になったのね?
――お祝いに、二人で一緒にシドロヴァへ行ってらっしゃい。
――半年近く、流行り病と闘っていたんですもの。
――気晴らしに出かけるといいわ!
「それに、ぼくの家って自動車調律師の家系だからさ……シドロヴァには、車でしょっちゅう行ってるんだ。なのにラウルだけは、乗っちゃダメって言い張っても、まあ、けっこう無理だなって……」
エイダンはそう言うと、観念したように肩を落とし、疲れた笑みをこぼした。
自動車調律師の家系となると……どうやらトカレフ家は、動く車を保有している、かなり希少な家柄だ。
だとしたら、定期的に、街の人々から買い出しの依頼を引き受け、車でシドロヴァに向かう役目があるんだろう。
その買い出しにラウルも連れて行けと、周囲は強く勧めてきたというわけだ。
なるほど……狭い街での近所付き合いを考えると、無理に断るのは難しそうだ。
ただ博士は、エイダンの事情を聞くなり――心底呆れたとばかりにこめかみを押さえた。
「フゥ……いやはや、とても正気とは思えない方々だねぇ……」
するとエイダンは、小首をかしげ、不思議そうに博士を見ている。
「ははっ、正気じゃない? あの、何か気になることでもあるんですか?」
「エイダンくん……君は半年近く、ご実家にリビングデッドを幽閉していたのだろぅ? それで君のご家族はぁ、まぁったく気づかなかったのかぃ?」
「まあ、ニーナには、こないだバレちゃったけど……ぼくの家庭って、ちょっと特殊だからさ、ははっ……」
エイダンは軽やかに肩をすくめては、少し困ったように笑った。
「ぼくの父さんも母さんも、数年前に、リビングデッド向けの地雷に巻き込まれちゃってね。もう、自力じゃ歩けないんだ。あのとき鼓膜も破れて、耳が遠くなっちゃって……今はぼくが、付きっきりで二人を介護してるんだ。だから、ははっ、ニーナももう少し、手伝ってくれたら嬉しいんだけど……」
エイダンは何か言いたげに、妹のニーナを一瞥した。
「ははっ、ぼくたち数ヶ月前に、すっごい大喧嘩しちゃってね! それでニーナったら、友達の家に家出しちゃって……ぼくが負けを認めるまで、絶対、家には帰らないって、もう意地になって……」
エイダンは参ったように肩をすくめ、床に目を落とした。
「あの家には、ぼくとラウルしかいないようなものだったんだ……ここ半年近く、ずっと……」
そのとき、博士が座っている安楽椅子が、軋んだ音を立てた。
「エイダンくん、それは弁明にはならない」
博士は露骨にため息をつくと、口の中で棒付きキャンディを転がしている。
「君はそのリビングデッドを、まだ人間であると周囲に説明したうえで、実家にかくまったのであろう?」
「ははっ、そうだね」
「であればぁ、君のご家族は、よりにもよって、同じ世帯に暮らす者を、半年近く見ていなかったのだぁ……半年近く、そう、実に半年近くである……」
博士は片眉を吊り上げ、厳しい目をエイダンに向けている。
「もしも私ならばぁ、その状況、とても気が気でならなくなるねぇ……自宅にやってきた赤の他人がぁ、自宅の中で、半年近く動向不明……? いかにも不気味ではないかぁ。何かしら疑問を抱くはずではないかぁ。仮に顔を見れない事情があったとしても、せめて声だけでも聞きたくなるのが人の心というものだぁ。にも関わらず、何ひとつ、疑問を抱かなかったとなるとぉーー」
博士は椅子に頬杖をつくと、偉そうな態度で、結論づけた。
「君のご家族はぁ……正気かねぇ……?」
それを聞いて――ふと眉をひそめずにはいられなかった。
正気を疑うのは、本当にそっちでいいのか?
どう考えても、エイダンのやっていることの方が、むちゃくちゃに常軌を逸していると感じるが――。
ただ、その話が出るなり――二段ベッドの下の段から、ニーナが憤慨した様子で出てきた。
「ゴメン、普通ならそう思うかもしれないけど……まさかエイダンがあんなことしてたって、本当に想像つかなかったの。だって、よその人なら『まさか』って思いたくもなるけど……彼は私たちの知ってる、エイダンだもん!」
ニーナはベッドに腰かけると、肩に羽織っているショールを握り締め、少し目を伏せた。
「もう……エイダンったら、いつもいつも、黙ってこういう無茶ばっかりするの。ああやって皆んなを助けてくれて、なんてことない顔して、損な仕事を引き受けてくれて……誰に褒められなくても、誰に気づかれなくても、必ず私たちのこと、助けてくれるの!」
……ん? 一瞬、ニーナが何を言っているのか、意味がわからなかった。
博士も眉をひそめて、安楽椅子を揺らす手を止めている。
「君はぁ……正気でそのようなことを言っているのかねぇ?」
同感だ。初めて博士と意見が合った。
「まあ、私だって、最初知ったときは、正直ビックリしたけど……でも、ラウルがリビングデッドだって気づいて、私たちを守ってくれたのは、エイダンよ。それに、ラウルが人を襲わないよう工夫して匿ってくれたのも、エイダンよ!」
ニーナはまばゆい朝日を浴びて、薄いブラウンの瞳を煌めかせている。
その弁護には、揺るぎない自信と、力強い説得力を感じる。
だからこそ。
オレは――唖然とした。
可哀想にあの人間は、美しいゲンソウを、本気で信じこんでいる。そのゲンソウに邪魔されて、ゲンジツがまったく見えなくなっているんだろう。
ニーナの熱血弁護はまだまだ続くようだが――とても聞いていられない。
オレはキッチンに引っ込み、かまどの面倒を見ることにした。
ああいう話を聞いていると、正直、疲れてくる。それよりは、ゲンソウに騙されない相手と対話していたいものだ。
火は口先でおだてても、勢いが増すことはない。どれだけ媚びへつらっても、頭に乗ることはない。
現実世界では、ヘソで茶を沸かすことはできない。
だからこそ火は、対話していて、安心する相手だ。
それに何よりも――火は、あたたかい。
***
ようやく、かまどの火が十分に成長した。
あとはケトルをかけて、お湯が沸くのを待つだけだ。
オレがキッチンから戻ってくると、二段ベッドの下の段では、リオがあぐらをかいて腕組みしたまま、難しそうな顔をしていた。あの子が睨んでいるシーツの上には、地図が大々的に広がっている。
ニーナもまた、リオの対面に座り込み、一緒になって地図をのぞきこんでいる。
彼女はメガネを押し上げると、憂鬱な声でリオに告げた。
「最短ルートだと、旧時代の国道が、ニューケンブリッジのど真ん中を通ってるから……ラウルを乗せたまま、あの街の中に……入らなきゃ、駄目なの……」
「そうなるね、ニーナ……」
ニーナとリオは、示し合わせたように、同時にため息をついた。
「ねえリオちゃん。本当に、本当に……迂回するルートって、何もないの?」
「ない。悪いけど、こればっかりは、何もないよ」
リオは腕組みした手をほどくと、地図の一点をさした。
「もし僕たちがニューケンブリッジを避けて、北に迂回するルートを選んだら……どう頑張っても、ケリー型のテリトリーにブチ当たる。……やめた方がいい。列車か戦車がないと、お話にならないね」
ケリー型か……一度だけ、オレとリオは、テリトリーの周辺エリアに踏み込んだことがある。あのときは幸い、すぐに引き返すことができたから、二人とも命からがら命拾いした。ただ、あそこには二度と近づきたくないもんだ。
ケリー型のリビングデッドは、驚異的な身体能力を備えている。たとえ車の中に逃げ込んでドアを閉めてもーーそこが自分の死に場所になる。
車の装甲は、ケリー型の前では柔らかすぎる。奴らは片手でドアを引き千切り、素手で天井を剥ぎ取るパワーがある。
一匹だけでも十分な脅威だ。車でテリトリーに突っ込むなんて、自殺行為にほかならない。
「じゃ、リオちゃん、南に迂回するのは?」
リオはそれに対しても、はっきりと首を横に振った。
「南のルートを選べば、今度は雪と氷だらけの、不毛な登山道だ。何もない悪路を、車で二週間、走破しなきゃならない……ガソリンが持たないよ」
「そんな……」
リオが黙って、地図を畳み始めた。
結論が出たようだ。
「こればっかりは、何も議論の余地はないね。僕たちは、旧時代の国道を使って、東に直進する。そのままニューケンブリッジの中を、正面突破しなきゃ駄目だ!」
なるほど……結局、そうなったか。
予想はしていたが、予想通り厳しい依頼になりそうな――。
そのとき、エイダンが場違いなほど、明るい声をたてた。




