第四話 ナンシー・ベッケンバウアー博士は存在しない・5
瞬間、部屋でくつろいでいたはずのベッケンバウアーが、大慌てで飛び出した。
「フェデリーカ、いけません、いけません! さすがにこの依頼は、お受けしてはなりません!」
ん? 今の発言は、本当にベッケンバウアーだったのか?
高飛車な態度がデフォルトのあいつにしては、あまりにらしくない動揺ぶりじゃないか。
「いいですか、フェデリーカ、いいですか? あなた、ニューケンブリッジがどのような研究機関か、何もご存知ないんでしょう? ね? あなたは困難の大きさを、根底から見誤っているんですよ?」
「けど……」
そのとき、薄刃門リオが深く息を吸い込み――。
「駄目だよ!」
夏空のように、晴れ渡る笑顔に変わった。
いつもの癖で、目を閉じて笑っている。
博士はそれを見て、絶望したように頭を抱えている。
ただ、彼女には左腕しか残されていなかった。
「フェデリーカ、フェデリーカ! あなたの命は、ひとつしかないのです!」
「駄目だよ」
「お願いです、フェデリーカ、お願いです! そんな危ないことに飛び込むのは、どうか思いとどまって!」
「駄目だよ」
二人はそんな不毛なやり取りを、延々と続けている。
博士の発言が支離滅裂なのは、いつも通りだ。だが「駄目だよ」と言いだしているリオを前にして、これほど右往左往している姿を見るのは、初めてだ。
「嗚呼……フェデリーカ、フェデリーカ……どうしてお母さんに、そのような無鉄砲ばかり言いだすのですか……」
彼女は膝から崩れ落ち、さめざめと涙をこぼし、必死に懇願を続けている。
オレは少しマフラーを下げた。自分の嗅覚をもってすれば、相手の匂いから、心情や感情を正確に見抜ける。
驚いたことに、どうやら彼女は、演技でも狂言でもなく、本心から本音でもって、リオを心配しているようだ。
博士とは、これまで数ヶ月近く、共に旅してきた。
だが、彼女がこんな行動に出たことは、一度もなかったはずだ。
それは、彼女がナタリア・ベッケンバウアー風のスタイルを崩したことが原因なのか?
変わったのは服装だけなはずだが、それが影響して、今まで表に出てこなかった何かが噴出たんだろうか。「ナンシー・ベッケンバウアー」という仮初の人格が破れて、彼女本来のココロが、少しずつ見えてきたんだろうか。
――どうか私の愛し子に、祝福あれ。
そういえば、それこそが彼女の「最大願望への執着」だと明かしていた。
彼女が祝福を願っている「愛し子」の中に、リオの姿があるんだろうか。
だとしたら、オレたちはただの――似た者同士なのか?
お互いにお互いを危険視して、「あのミミックをリオのそばから駆除しなければ」と、同じことを言い合っているだけなんだろうか。
――リオちゃんが米沢くんを殺害する動機を得るには、
――どのようなファクターを必要とするか……それが知りたい。
オレはまだ、彼女を完全に信用したわけじゃない。
それでもリオのニイサンとして、新米のネエサンの肩を叩き、伝えるべきことがある。
「……ネエサン、諦めろ。ああなると、オレたちがどう説得しても無駄だ……」
オレは玄関にいる青髪の兄妹を、部屋の中へと通した。
案の定、ネエサンは強い非難をこめて睨んできた。
「……いいですか、いいですか? もしもあの子に何かあれば……私の手で、あなたを八つ裂きにします。生かしたまま、四肢を切り裂き、蛆虫に血肉を啜らせます。よくよく覚悟なさい。必ずや、死よりなおむごい地獄を、味あわせてさしあげましょう」
その反応を見ていると、なぜか安心するな。その強い言葉の端々に、リオのことを本当に心配しているんだという優しさがにじんでいる。
あの不器用な思いやりを、「人間らしさ」と呼ぶんだろうか。
……少し、羨ましいな。
オレは無意識のうちに、自分のシャツの胸元を掴んでいた。
今となっては、オレはもう人間だったころのことは、何も思い出せない。
名前も、行く宛も、自分の居場所も、リオのニイサンから借りている。
それをどうにか駆使して、人間らしく見せかけているだけだ。
自分が一番よくわかっている。オレの人間としての中身は……空っぽだ。
それでも彼女は、オレとは違う。彼女にはまだ希望がある。
彼女の胸元には、過去を取り戻すためのドッグタグが遺されている。
もしもネエサンに、それと向き合うきっかけがあれば――。
そんなことを考えていると――ネエサンは急に、白い目で睨んできた。
「なぁんだねぇ? 気色悪い。私にそのようなニヤついた笑みを向けるとはぁ……」
その反応には、思わずポカンとした。
いかにもナンシー型ミミックらしい、陰湿で陰険な顔つきに戻ってしまった。
「……すごいな。これからオレも、お前に優しく接してやろうと思ったけど……いきなりそんなこと言われると、『やめようかな』って――」
「ハァ? 私に優しく接するぅ? フッ、ヘレン型ミミックごときが、私に同情しようなどと……虫唾が走るねぇ」
その発言は――さすがにカチンときた。
オレのことは、いくら悪く言っても構わないが、ヘレンを侮辱するのは、『おともだち』として聞き捨てならない。
「……お前、ヘレンが優しいヒトでよかったな。オレもお前に優しくすると決めたからには、二言はない」
「ハアァア〜ア……くだらん、くだらん、実にくだらん! 私に優しくしようなどと考えるくらいならばぁ、君はせいぜい『何もしない』をしてくれたまえ」
「それ……本気で言ってるんだな? じゃあ、あとはよろしく……」
オレはその場で硬直して、あえて冷淡な言葉を畳みかけた。
「ここで『何もしない』という命令に従う。あとはお前が、オレの仕事を引き継いでくれ。かまどに火を起こして、リオの朝食を作れ。まあ、片腕だと火起こしも面倒だろうけど、お前は知恵者だから、どうにかできるだろう? それに朝になったから、部屋の空気の入れ替えと、生水を沸かして、飲み水の確保。それが済んだら、客人の二人にお茶を出すのも忘れるなよ。ああ、あと今日は久々に晴れそうだから、溜まってる洗濯物も――」
「ハァ、やれやれぇ、これだから頭が悪い若者は嫌いなのだぁ。……命令変更、『私のことをしばらく放っておきたまえ』……いいねぇ?」
どうせそう来ると思っていた。
「はいはい、お気に召すままどうぞどうぞ。ニイサンはいつだって、ネエサンの命令に従いますよ……」
オレはため息混じりに肩をすくめると、玄関のドアを、後ろ手に閉めた。
「いわゆる人間的な事柄で、一番われわれの心が慰められる瞬間がある。
人びとをよく知れば、たいてい彼らが、評判よりも良い人間だということだ。」
――カール・ヒルティ




