第四話 ナンシー・ベッケンバウアー博士は存在しない・4
翌朝、リオが寝静まっている宿の二階に、ノックが鳴った。
誰が来たんだ? 夜明け前の時間じゃないか。
まだリオは、ベッドで寝息をたてて眠っている。
オレは見張りを中断して玄関に歩み寄った。ドアを開けるときは、念のため、後ろ手に拳銃を隠し持っておいた。
「……ニーナさんじゃないですか。どうしたんですか、こんな朝早くに」
ドアの隙間から見えたのは、先日会った、黒縁メガネの女の子だった。
何やらニーナは、キョロキョロと廊下の左右を確認している。
「ご、ごごごゴメンなさい米沢さん。今、ちょっといいですか? ど、どうしても、他の人には頼れないことができちゃって……私も、これ、どうしたらいいのか、わ、わかんなくて……」
外の廊下からは、もうひとり、別の人間の匂いがする。
ドアを広げてみると、ニーナの兄である、青髪のエイダンが微笑んでいた。
するとオレの後ろに、バッシュが床を擦る音がキュッキュと聞こえてくる。
「おやぁ? 米沢くん、こぉんな時間にお客様かねぇ?」
振り向けば、顔が包帯まみれのベッケンバウアーが近寄っていた。
オレは一応、ニーナとエイダンにも、博士を紹介しておいた。
ただ、ニーナはそれを聞くなり――ベッケンバウアーの研究スタイルを、上から下までじっくり見て――怪訝そうな目をしている。
「あ、の……ご、ゴメンなさい。その方、本当に……け、研究者、さん?」
その言葉は、ベッケンバウアーをいたく挑発したようだ。お気に入りの棒付きキャンディを、機嫌悪そうにガリガリと噛み始めている。
「マァ、君が私の正気を疑うのも無理はない……フッ、ご覧の通りぃ、真紅色のドレスに赤黒のバッシュを組み合わせる、いかにもイカレた珍妙な女だぁ」
「い、いえっ! そ、そんなことないですよっ! すすすすっごく斬新で、なんていうか、そのっ……ふぁ、ファッショナブル、って、言いますか……?」
ガリッ――キャンディが砕ける音が、露骨に鳴った。
「アァ、お世辞はいらない、聞き飽きている。そのような珍妙な女が白衣を羽織っては、『これぞ自らの研究スタイルである』と主張するのだからねぇ。この際はっきりと、『君は正気ではない』と言いたいのだろう? 私もよくよく、共感できるよぉ……」
ガギッ――脅しをかけるように、キャンディが真っ二つに割れる音が響いた。
「す、すすすすすすいません! 私、そんな、ぶ、侮辱するつもりじゃ……」
ニーナはひどくうろたえだしたが、急に何か思いついたのか、手を束ねて耳障りのいい声をあげてきた。
「あっ、そうだ! ちなみにベッケンバウアー先生って、今、どんな研究に取り組んでいらっしゃるんですか? 私、すっごく興味あります!」
ニーナが猫撫で声でおだてると、博士はいとも簡単に機嫌を直したようだ。
「なぁに、実にありきたりなテーマだよぉ、フフ……リオちゃんがこの青年を殺害する動機を得るには、どのようなファクターが必要か……それが知りたい」
「え?」
「いやはや、実にお恥ずかしい限りさぁ、アッハッハッハ! 確かに君の言う通りぃ、あまりにオーソドックスで新規性に欠けると、私も重々自覚している」
それを聞いて、ニーナは目をパチクリさせ、愛想笑いを続けている。
何かとんでもなく難解な学者ジョークをぶちかまされたんだと思っているらしい。
「あ、はは……面白い、です、ね……」
「そうだろぅ、そうであろぅ? フフフ、その若さでこの研究の奥深さがわかるとはぁ、君もなかなか見込みがあるねぇ……」
「えっ? あ、あの、でもっ、ちょっと整理させて、ください……り、リオちゃんが、米沢さん、を……こ、ろ……?」
「そうさぁ、その通り! 聡明な君ならば、この研究の重要性は直感的にもわかりやすいだろう? フフフフフ!」
右腕がない博士は、左腕でニーナの肩を抱いた。
そして天を仰いで、恍惚と語り聞かせている。
「アァ! 嘆かわしいかな、人類は致命的な欠陥を抱えている。あまりに数が増えすぎているのだぁ! このままでは、いずれ人類は、破滅の道をたどるであろう。ならばこそ、動物行動学の研究を通じ、人類の未来に貢献するのが、私の使命である。増えすぎた人口を調整し、社会貢献としての殺人を促す手段を模索しているのは、そのためなのだァ!」
博士の理想が、廊下に、高らかに、反響した。
やりやがったな。これだからナンシー型のミミックは面倒くさい。
あれを崇高な理念だと思いたいなら、好きにすればいい。ただ、こんな朝早くに騒ぐなんて、他の宿泊客から苦情が来るだろう。リオに迷惑がかかることだけは、本当にやめてもらいたい。
博士は好きなだけ語り終えたのか、ニーナに血走った目を向け、熱く同意を求めているようだ。
だが熱い期待の眼差しは――あっという間に、落胆の色に変わった。
「アァ……はいはい、まただぁ……『ベッケンバウアーくん、君は正気かね?』と言うか言うまいか悩んでいる顔だぁ。残念ながら、君も正気ではなかったのだねぇ……」
ベッケンバウアーは冷たく鼻で笑うと、さっさと部屋に引っ込んでいった。
オレは一応、取り残されたニーナをフォローしておいた。
「放っておきましょう。あいつのキママな行動に付き合っても不毛ですよ」
「えっ……そ、そんな……だって、私……」
「心配いりません。あいつが正気じゃないのは、いつも通りですから」
それにそもそも、あの研究テーマは彼女自身のものじゃない。
数十年前に実在した研究者、ナタリア・ベッケンバウアーの完全な受け売りだ。
あいつはナンシー型のミミックだ。彼女はミミックにされたとき、脳みそは寄生虫の手でバラバラに分解され、ナタリア・ベッケンバウアーを模した人格で、完全に上書きされた。
それこそ、記憶も、肉体も、顔立ちさえも、ナタリアそっくりに作り変えられた。
だからあいつは、今でも自分は『ナンシー・ベッケンバウアー』という架空の研究者だと思いこんでいる。そしてナンシー型のミミックは、全員、「自分こそが本物のナンシー・ベッケンバウアー博士だ」と言い張るもんだ。
だが、そんな名前の研究者はーーそもそも存在しない。
それでも彼女はミミックだ。そのゲンジツを直視することは絶対にできない。
そう言うオレもミミックだ。自分では直視できないゲンジツがある。
擬態種は、ゲンジツを直視すると即死する。例外は、一度もない。
直視したゲンジツに耐えきれなくなり、あらゆる手を尽くして、自死に走る。
そのときオレの背後から――シーツがこすれる音が聞こえてきた。
振り向けば、二段ベッドの上の段で寝ていたリオが、あくびしながら起きあがっている。
「おはよ、ニイサン……お客さん? さっき、ニイサンに頼りたいことが、どうのこうのって聞こえた気がしたけど……」
その声がするなり、玄関にいるニーナが、必死に声をあげた。
「ああっ、リオちゃんも起きてくれたんだ! ゴメンね、朝早くに。リオちゃんたちって、確か、消息代理人でしょ?」
「え? そうだよ」
「じっ、実はね、どうしても私たちじゃ、届けるのが厳しい荷物があって……」
「え? 荷物のお届け? もちろん、僕にドーンと任せてよ!」
「ほ、ほほほ本当!?」
二人の間で話を聞いていると、頭が痛くなりそうだ。
頼むから、リオも考えなしに行動するにしても、もう少し考えてから行動してほしいものだ。
「や……さすがに引き受けるか決める前に、依頼の内容を聞くのが先だろう」
オレの視線は、自然とニーナに向かった。
ニーナはオレの目を見て、黙ってうなずいている。彼女は肩に羽織っているショールを直すと、メガネを押し上げ、咳払いし、慎重に依頼内容を告げようとしている。
ただ、後ろに控えていたエイダンが――何も気にせず、話を横取りした。
「まあ、ちょっとラウルを車に乗せて、ニューケンブリッジを通りたいだけさ! あははっ!」
その依頼にはーー思わず、耳を疑った。
「いや……ニューケンブリッジ……?」
オレの聞き違いだろうか? いや、聞き違いじゃない。
エイダンは、何てことない顔してーーニューケンブリッジの検問を、ラウルを運んで突破しろと、依頼してきた。
さすがのリオも、その依頼を聞いて、少し慎重になってくれたようだ。
「それ……僕もちょっとだけ、詳しくお話、聞かせてもらいたいかも……」
リオは二段ベッドから音もなく飛び降りた。
玄関まで歩み寄ってくると、腕を組んで、何かじっくり思案している。
「ねえ、エイダンさん……動く車は、そっちが手配してくれるってこと?」
「ははっ、当然さ!」
「目的地は?」
「まあ、ちょっと野暮用で、シドロヴァにね」
「車にラウルさんを乗せるのは、絶対?」
「無論だよ」
エイダンが断言するとーーリオは少し、厳しい顔つきになった。
「それで……この街から出発すると、検問にはいくつ引っかかるの?」
「えーっと、三つだっけ? いや、四つだったかな?」
「じゃ、僕たちの報酬は……シドロヴァまでの片道キップで。帰り道は付き添えない。それでいい?」
「ふふっ、本当にそんなことでいいの? だったら大歓迎さ! 帰り道は、行きと同じことすれば、大丈夫そうだし……」
「で、最後に確認なんだけど……車には、どうしてもラウルさんを乗せなきゃ駄目なんだよね」
「当然」
するとリオの中で、結論が出たようだ。
あの子は顔を上げ、ハッキリと断言した。
「……いいよ。その依頼、僕たちが引き受ける」




