第一話 黒蓮は雪より出でて雪に染まらず・2
俺は目を疑った。
リオの真っ白な髪も、リュックも、ワンピースも――無傷のまま。
……なぜだ?
ブラック・ロータスの攻撃を受けていない? いや、それどころか、周囲のリビングデッドだけが、まるで散弾銃を浴びたように穴だらけにされていた。
あの変異種は、器用にリオだけを狙いから外したのか?
――それとも。
西陽がまぶしく照らす広場の先、大きなビルの影に、通常種の群れが密集している。
その光景を背にして、リオは突然足を止め、くるりと振り返った。
「……これ、君がやってくれたの?」
「……んだ……」
リオは、大きな瞳で変異種を見つめ――静かに、**「ありがとう」**と呟いた。
「リオッ! 早くそいつから離れろ! ……早くッ!!」
俺が叫ぶ。
だが、リオはまばたきもせず、何かを真剣に考えているようだった。
一方で、ブラック・ロータスはよたよたと歩を進めながら、低く呪文を唱えている。
「……ほーが……ほう、が……」
このままでは、まずい。
――今ならまだ間に合う!
俺は敵の背後を取り、ナイフを抜いた。
一撃で首を――。
――ぐにゅっ!
「ッ!?」
ナイフが食い込まない。
いや、それどころか、ゴム製の玩具にでも刺したような感覚だ。
手応えが、まるでない。
銃は効かない。ナイフも通じない。
だったら、こいつの首を絞め殺すしか――
「ニイサン、勘違いしてるよ。」
リオが、穏やかに言った。
「この子は僕たちを助けようとしてくれたんだ。ちょっとお話したいし……待っててくれるかな」
「……っ!?」
対話……? まさか、こいつと!?
――そんな考えには、絶対に賛成できない。
何を考えているのか、何を企んでいるのか――リビングデッドの思考は、理解できなくていい。
……たとえ、恩知らずと言われようと。
そう思った瞬間、頭の中に「米沢」の声が響いた。
『――その約束を守れるんだったら、俺がお前に貸してやるよ。』
その言葉を思い出した瞬間、俺の身体が命令に縛られた。
ナイフが手から滑り落ち、口が勝手に動く。
「……わ、かった……君の命令に、従う……」
――カランッ。
ナイフが乾いた音を立てて、地面に転がった。
俺の身体は、その場で硬直する。
だが――目の前の光景は、生きた心地がしないものだった。
ブラック・ロータスが、リオの目の前まで歩み寄る。
そして、ポケットから何かを取り出し――おずおずと差し出した。
それは、鈍く錆びた金属片の束。
――ドッグタグだ。
リオは目を輝かせる。
「わあっ……! このドッグタグ、ぜーんぶ君が集めたの?」
「んだ」
「すっごい数だよ! ねえねえ、どうやって集めたの?」
「……」
その瞬間――。
ブラック・ロータスは、手のひらを返すように、ドッグタグをポケットにしまい込んだ。
「……んだ、ほーが……しんだ……ほうが……!」
その声が、途端に深い恨みに染まる。
「死んだ方が! 死んだ方が! 死んだ方が!!」
――ッ!!
ブラック・ロータスは、苛立たしげに頭から花弁を引き千切ると、黒い血の塊を捏ねるように変形させ――。
それは、鋭い短剣へと姿を変えた。
「…………………………ッ!」
ヤバい。
このまま黙って見ているわけにはいかない。
だが、俺は動けない。
「対話が終わるまで行動を禁ずる」
――その命令が、まだ効いている。
だが、リオは。
まばたきもせず、ひたむきにブラック・ロータスを見つめている。
「君……すごいよ! そのドッグタグを集めるセンス、まるで芝ニイみたい! ねえ、お願いっ!」
リオは、熱烈な尊敬の眼差しで、手を合わせた。
「もし君さえよければ、僕と一緒に仕事しない?」
「……」
「だって、これって運命だよ! 実は僕、『消息代理人』なんだ!」
その言葉を聞いた途端――。
ブラック・ロータスは、大人しくなった。
まるで、目を覚ましたかのように。
「……ほーが?」
ゆらりと黒い血が収まり、沈黙が広がる。
「あっ、消息代理人ってわかる? 僕の仕事って、街から街へ旅して回って、消息をお届けすることなんだ!」
リオはそう熱弁すると、変異種の手を取った。
「だからきっと……運命の女神様が、離れ離れになってた僕たちを、今日ここで引き合わせてくれたんだよ!」
――リオは、また運命を見つけてしまった。
「ねえ、どうしてかな……君とは初めて会った気がしないんだ。」
「まるで生き別れの兄弟を見つけたみたい。」
「僕と君は、共に惹かれ合う運命だったんだ!」
俺は、その言葉を聞いて――血の気が引いた。
「……ほ……ほーが?」
ブラック・ロータスは、戸惑っているようだった。
だが、リオは切なげに眉を寄せ、ため息をつく。
「やだなあ、そんな他人行儀にそっぽ向かないで?」
「僕のことは本当のニイサンだと思って、なーんでも頼りにしていいんだからねっ!」
ブラック・ロータスの表情は、読めない。
だが――。
リオは、嬉しそうに微笑んでいた。
そして――。
俺は、それを見て、確信する。
――恐れていたことが起きた。
リオはブラック・ロータスを「オトウト」と呼び、デレデレと可愛がり始めた。
当然、俺はその様子を見守りながら――。
「はい、君の命令に従います」
――そう言ってしまった、自分に鳥肌が立った。