第一話 黒蓮は雪より出でて雪に染まらず・1
依頼人を代理して、故郷に消息を届けることから、
この子のような旅人は『消息代理人』と呼ばれている。
かつて、ゾンビの感染源となった寄生虫は、学習増強剤の俗称で親しまれていた。
たった一錠飲むだけで、集中力が増強され、己の目標に向かって邁進できるようになる。
一万時間かかるトレーニングも必要ない。学習増強剤を服用するだけで、努力も、挫折も、才能の壁も、すべて取り払い、自分の夢を実現することが出来ると謳われた。
芸術志向なら――ヘレン型。
スポーツ志向なら――ケリー型。
知識優先なら――ナンシー型。
当然、最も人気が高かったのはナンシー型だった。
国家試験や大学入試、さまざまな知識が求められる人生の節目に、親が子どもに学習増強剤を服用させるのは、親に出来る最高のプレゼントだとして横行した。
だが――彼らは一体、何を願ったんだ?
旧市街地には、ナンシー型のゾンビがうじゃうじゃとたむろしている。
制服姿のまま動かぬ生徒。手提げ袋を握ったままの主婦。日陰を奪い合う彼らの指先には、まだ生活の名残がぶら下がっていた。
「米沢にぃ! 次の交差点、左!」
先頭を走るリオが、振り返りざまに叫ぶ。
「左に出たら日向だよ! にぃさん、索敵お願い!」
「わかった――」
マフラーをずらした瞬間、刺すような臭気が鼻腔を焼いた。
酸。腐り。鉄。喉が痙攣し、咳がこぼれる。
「にぃさん! 大丈夫!?」
「ッ……問題、ない……!」
――よくない。濃すぎる。
皮膚の崩れ、肉の腐れ、乾いた血。祭りの最中に街ごと感染したかのような人口密度だ。
それでも嗅ぐ。匂いの層を一枚ずつ剥がし、線を拾う。
「リオ、その先は通常種だけだ。変異体は混じってない。押し切れる!」
「ありがと! もう少しで日向ルートに出るよ!」
助かる。陽の下なら、やつらは薄くなる。たどり着きさえすれば――。
角を抜けた瞬間、喉が凍った。
密集――時間が止まったゾンビの雑踏が、前方を埋め尽くす。
誰もが服を着たまま立ち尽くし、顔は崩れ、眼窩は空洞。数えるのを諦めるほどの数。
夕空を仰ぐ。日没まで、時間がない。
だが、T字路の先が小広場、その向こうが日向の抜け道――そこを抜ければ城門通りに出られる。
いまは突っ切るしかない。息を削ってでも。夜が来る前に。
……なのに、白衣の女が一人、目の前でだらりと足を運んでいる。
「ベッケンバウアー。ポケットから手を出せ。真面目に走れ」
「真面目に走ることに意味はない……意味があるのなら、もうとっくに人類は救われているではないかぁ」
コツーン、コツーン。紅のブーティが石を叩く。
――走る気、皆無だな。
「最後の警告だ。従わないなら、この場で射つ」
「ウフフ……本気であるのかねぇ? アッハハ!」
左手で背を押し、右手で拳銃を抜く。額へ、真っ直ぐ。
「……米沢くん、なぁんのつもりだい?」
「景色が見たいなら、死んだあと好きなだけ眺めろ」
カチッ。安全装置が外れる音が、密集の空気を割る。
音は群れを呼ぶ。引けないなら、本当に撃つ。
博士の声色が一段冷える。
「私に銃口を向けるとはぁ……それは君自身に向けたまえ」
「確かにオレは、リオからお前の護衛を命じられた。だがリオの権限は最低ランクだ。俺は《米沢》の命令には逆らえない。同じゾンビ同士だ……意味は分かるな?」
「ハァァァ……馬鹿馬鹿しい」
博士は大げさに天を仰ぎ、深いため息をついた。
「勝手にしたまえ。私は忙しい」
「何が忙しいんだ」
「見たまえ、この有様をぉ……」
ポケットに手を突っ込んだまま、博士は物憂げに密集を示す。
風向きが裏返る。匂いが一筋、横合いから刺さる。
異物。黒い鉄の味。
嗅覚が黒で塗り潰された瞬間、ゾクリと悪寒が走る。
顔を上げる。広場の先、ひとつだけ浮く影。
頭頂に――黒い蓮が咲いている。
「リオ、止まれ! そいつは黒血種だ!」
黒い花弁が、ヌチャ、と湿った音で震えた。
黒血種――黒い蓮の名のとおりの異形。
震えに合わせて周囲の光が薄皮一枚、剥がれる。日向のはずの地面に、花のかたちの影が広がり、そこだけ昼が痩せる。
「米沢ニイサン、これが最短なんだ! ここを遠回りしたら日没に間に合わないよ!」
リオはリュックを背負い直し、加速をつけ、全力でブラック・ロータスのわきを素通りしようとしている。
まさか、まさかとは思うが――あの子はあえて遠回りして、黒血種の群生地を、選んだのか?
「僕だって、ニイサンとネエサンに、いつまでもおんぶに抱っこじゃないんだ! この群生地、僕だけ先に走り抜けちゃえば――」
リオは俊敏に、ブラック・ロータスの真横を駆け抜けた。
「あと少しで、出口だよ!」
リオが希望に満ちた活路を叫んだ瞬間――ブラック・ロータスが、首を回した。
「……だ……ほーが……だ……ほーが……」
不気味な呪文を唱え終えると――頭から花弁が、ハラハラと散っていく。
すると変異種は、花弁を両手で受け止め、おもむろに腕を振り上げ――血飛沫を投げた。
「リオッ! 避けろオオオオオオオオオッ!」
オレは頭が真っ白になって、絶叫した。
避けろ――避けてくれ。
いくら心の中で祈っても、すでに手遅れだと、わかっている。
賽は投げられた。
黒い血が、広く、隙間なく、飛び散り――鋭く、変形していく。
硬化した血飛沫が、容赦なく、逃げ場なく、あの子の背中を切り裂くかと思いきや――その先に渋滞しているゾンビをなぎ倒した。




