第二話 微笑み、微笑み、しかも邪悪たりうる・4
話が途絶えた。
窓の外では、激しい長雨が続いている。
だが、ゆらぐように雨音が弱まると――どこからか、叫び声が聞こえてきた。
聞き違いじゃない。叫び声は、明らかに地下から聞こえてくる。
「……ふふっ……ふふふっ……あっはははは……」
エイダンは、のらりくらりと笑いだした。
頭を振り、困ったように眉を寄せ、いやに楽しげに笑っている。
「……はーあ……本当、しょうもない……ぼくの頑張りって、なんでいつもこんなことで……ふふふっ、ふふふふふふっ……タイミング悪いなあ……」
オレは、手に持ったレインコートで右手を隠しつつ、慎重に腕を下げた。
太もものホルスターに収めている、軍用ナイフを握るためだ。
そのときエイダンが小馬鹿にするように両手を挙げ、白旗のポーズを見せた。
「あーはいはい、降参です! 参りましたよ探偵さん。そうだな、地下室の鍵なら確か――」
エイダンはそう言いながら、何気なく腰に手を伸ばしている。
オレはとっさにナイフを抜きーーレインコートを手放した。
「リオ、下がってろ」
エイダンの間合いに踏み込み、ナイフの柄で、彼の右手を叩いた。
――ガチンッ!
やっぱりな。あからさまに殺意の匂いがすると思っていた。
エイダンが手を伸ばしたのは、ポケットの鍵じゃなかった。腰に吊った拳銃だ。
――ゴトンッ!
拳銃はホルスターから抜かれた瞬間、手から叩き落とされ、重い音を響かせた。
「はは、失礼!」
彼は足で銃をずらした。すぐさま振り向き、銃に手を伸ばしている。
「動くな」
オレが投げ出したレインコートが、静かに、床に落ちた。
エイダンの喉仏に、後ろからナイフを突きつけ、状況を制した。
「……エイダンさん、銃には触れないでください。無理に拾えば、オレはリオを護るためにも、あなたをこの場で殺害します」
冷静にそのことを伝えると、エイダンはゆっくりと首を回し、オレを見た。
「……ふふっ、すごいですね。一体君は何者ですか?」
「オレはリオのニイサンです。それ以上の肩書は、ありません」
「おかしいなあ、おかしいですねえ。そんなの肩書って呼べませんよね? ちゃんと真面目に答えてくださいよ。お仕事は? 出身は? 経歴は? 過去は? どんな組織に所属して、どんな訓練を受けたら、こんな芸当が出来るんですか?」
「これくらい……誰だって出来ます」
「あっはは、またまた、そんなしょうもないご謙遜を!」
エイダンはブラウンの瞳を輝かせ、心底不愉快だとばかりに笑っている。
「だって! 会って早々いきなり殺そうとしたのに、あっさり防がれたなんてびっくりしましたよ! ぼく、殺そうと思って殺せなかったの、実は今日が初めてで……」
エイダンは殺意に満ちたギラついた目つきで、興奮気味に食いついてきた。
「あのっ、素人な質問だって笑わないでくださいね? ふふっ、こうやって失敗したときって、あとで報復されると困るし、君たち全員、やっぱり殺した方がいいですよね!?」
「は?」
「いやあ、すいませんっ! ぼく、この手のことって全部独学だから、当たり前なことも全然知らなくて……あっはははは!」
その横で、ニーナは目を白黒させ、オレとエイダンを交互に見ている。
「えっ? あ、あの……米沢さん? エイダンも、な、ななな何してんの?」
一方、後ろからリオが、落ち着いた足取りで歩み寄ってくる。
オレの黒いウインドブレーカーの裾を、ツンと引っ張ってきた。
「ニイサン、その人の匂い……リビングデッドだったりする?」
オレはマフラーを下げ、エイダン・トカレフの匂いを慎重に確かめた。
「や……彼は生きた人間だ」
「じゃ、その人のこと、もう許してあげて」
「……」
「大丈夫だよ」
「だがリオ……」
「大丈夫だよ」
その声には、何も感情が込められていなかった。
だがーーなぜリオは、そんなリスクの高いことばかり言いだすんだ?
エイダンは、いきなりオレたちを殺そうとした危険人物だ。なのにリオは、この件を水に流そうと言うのか? 今すぐ彼を解放しても平気だと言うのか?
一体、何の確信があって、そんなことを断言するんだ。
自分の背後で、あの子が何を考えているのか、まるでわからない。
だが、他ならぬリオからの命令だ。
「……わかった……君の命令に、従う」
渋々ながらナイフを取り下げ、エイダンを解放した。
床に転がった拳銃は、オレが注意しつつ拾い上げた。
そのときオレの背後から、リオが冷たい声で宣言した。
「エイダンさん、僕たちは決して、今回の件を追求しません。ですからエイダンさんも……報復を恐れて、僕たちを手にかける必要は、ありません」
それに対してエイダンは、誠実そうな微笑みを浮かべては、深々とうなずいている。
「……もちろん! ぼくは君の言葉、信じるよ!」
「駄目だよ」
リオはバッサリと、エイダンの言葉を否定した。
「えーっと……何がダメなのか、ぼくにはさっぱり――」
「駄目だよ」
「あれれ? お話が通じないのかな、あははっ!」
振り向くと、リオは大きな瞳で、エイダンを真っ直ぐ見つめていた。
容赦なく、徹底的に、相手の目をじっくり見ている。
その凝視にーー手加減は一切なかった。
「駄目だよ」
次第にエイダンはーーとぼけるのをやめた。
リオが何を言いたいのか、当然、彼には心当たりがあるはずだ。
エイダンは口先で「信じる」と約束したが、恐らく、リオの言葉を何ひとつ信じていない。当然、報復することを諦めていない。
だからリオは駄目だと言っている。エイダンが諦めるまで、繰り返し、執拗に、頑なに、駄目だと言い続けている。
エイダンはふと目を逸らすと、気さくに肩をすくめた。
「……ふふっ……だったら、せめて証拠が欲しいな。君のこと信じられるって、まあ、何でもいいから保証がないと……」
「……」
「あーあ、そんなこわい顔しないでよ! リラックス、リラックス!」
彼は子どもでもたしなめるように、少し腰を屈めて、リオと同じ目線の高さに立った。
「ちょっと休戦ってことで、ぼくとおしゃべりしない? 少し話せば、きっとお互いのことがわかるはずさ! 君を信じても大丈夫だって、きっと……」
前向きな発言だ。歩み寄りの姿勢を感じる、希望に満ちた要求だ。
だがリオはーーその要求には一切応じなかった。
暗く黒い瞳で、ただただエイダンの目を見つめている。
奇妙な……沈黙が流れた。
「……へえ……なんでわかるのかなあ? この場では、君が何言ったって、ぼくには何の保証にもならないんだって――ちゃんと、わかってるんだ……」
「……」
「やさしい子だね。勘がいいのかな? だったら、ぼくもお手上げだ……」
すると、エイダンの匂いから――殺意が消えた。
その瞬間、リオはオレに顔を向け、目を閉じて笑った。
「大丈夫だよ」
それを確認し、オレは手にしていた軍用ナイフを、再びホルスターにしまった。
次第にニーナも、状況が飲み込めたようだ。青い顔をして、恐る恐る兄に尋ねている。
「え、エイダン、ちゃんと説明して……ラウルって、ただ、流行り病が治らないだけって言ってたじゃない。米沢さんが言ってることって……ほ、本当、なの?」
そのとき、となりのテラス部屋から、のんびりした夫婦の声があがった。
「おーい、エイダン、何があったんだい?」「誰か転んだのかしら?」
エイダンは振り向くと、妙に大きな声を張りあげている。
「はははっ! 父さん、母さん、何でもないよ! ニーナがまたしょうもないことで転んじゃっただけさ! あっはははははははははは!」
ただ、エイダンの真後ろにいるニーナは、それを聞いて絶句している。
「……ごめんねニーナ。その話は、あとでぼくの口から、ちゃんと説明するよ。今はちょっと、旅人さんに訊きたいことが、色々あってね」
「で、でも……」
その瞬間――青年から、微笑みが失せた。
エイダンは妹の両肩に手を置き、がっしりと掴んだ。
逃すまいとするように目をのぞきこみ、何やら唇を動かしている。
オレたち客人には聞こえないよう、小声で何か告げている。
するとニーナは、すっかり顔色が悪くなり、すがるような目に変わった。
唇を真っ青にして、必死に首を横に振っている。
それを見て――エイダンが、みるみる笑顔に変わっていく。
「……ははっ、いい子だね。ぼくは信じてるよ、これ以上しょうもないことで、ぼくを困らせたりしないって……」
エイダンはニーナを手放すと、地下へと通じる階段に向かいだした。
「お願いです、旅人さん、助けてください……ラウルの様子が、ちょっと変なんですよ……」
オレはエイダンの行動に警戒しつつ、リオと共に、暗い階段を下っていくことにした。
「モンスターは存在する。幽霊も存在する。
彼らは我々の中に住み、時として勝利する。」
――スティーブン・キング




