第8話 救急車と折り鶴
人を待つ時間は、時計とは違う秒針で進む。
別の秒針は、時計の秒針よりずっとゆっくりしか動かない。
ゆっくりしか動かないくせに、人を待つ時間は、終わってみるとなぜかいちばん短く感じる。
短く感じるのは、待っているあいだだけ、人間が自分の生活をまったく進めていないからだ。
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病院の待合のベンチで、僕は缶コーヒーを飲んでいた。
自販機のいちばん上の段の、いちばん右の、青いやつ。
夜の自販機は、昼の自販機よりなんとなく優しく見える。
夜の自販機は、誰にでも何かを売る覚悟がある。
昼の自販機は、選り好みをしている気がする。
僕の缶コーヒーの好みは、相変わらずハジメの缶コーヒーの好みと同じだった。
ハジメの鞄は足元に置いていた。
ファスナーの引き手は、相変わらず片方ちぎれていた。
人をもう一度改めるというのは、本人がいない時にしか出来ないことだ。
本人がいるあいだに改めると、二人とも嫌な気持ちになる。
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深夜の二時を回ったころ、僕はもう一度、鞄に手を入れた。
最初に改めたとき、見落としたか、見ないことにした、内側のもうひとつのポケット。
ファスナーの二段目の奥のほう。
指の先に、紙の軽い感触が当たった。
取り出すと、それは折り鶴だった。
よれよれの、紙の折り鶴。
もう鶴というよりは紙くずに近い。
折り目の谷の部分がほつれて、片方の翼が頼りなく垂れていた。
翼が垂れているのに、それでもたしかに、鶴の形をしていた。
形をしているというのは、人間のいちばんしぶとい特徴だ。
しばらく、その鶴を手のひらに乗せていた。
乗せていると、ハジメがいつだったか、ぽつりと言っていたことを思い出した。
「ジャンボ。鶴って、千羽折ると願いが叶うんだってさ」
「いまさら、そんなこと信じてんのか」
「いや、信じない」
「信じないのか」
「信じないけどさ、一羽だけなら、信じる気がする」
「お前、最近どうかしてるぞ」
「どうかしてるからさ、一羽だけ、信じる」
その一羽は、これだった。
二年前に美咲ちゃんがハジメに渡した、と本人が言っていた、これだった。
折り鶴をもとの内ポケットにそっと戻した。
戻すとき、自分の上着の内ポケットの、馬券のことを一瞬だけ思い出した。
馬券と折り鶴は、別のポケットだった。
別のポケットでないといけない種類の紙だった。
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医師がもう一度来てくれて、ハジメの状態を説明してくれた。
脳波には大きな問題はない。
心拍も安定している。
呼吸は自発である。
ただ、目が開かない。
医学的には説明がつきかねることもある、と医師は慎重に言葉を選んだ。
言葉の選び方は、家族でない人間に向けて設計された優しさの一種だった。
「自分の意思で、戻ってきますか」
僕は訊いた。
「ご本人次第、としか言えません」
ご本人次第。
ご本人次第というのは、神様への診療報酬の請求書のような言葉だった。
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朝の七時すぎ、ポケットの中で携帯電話が震えた。
昨日かけた番号からの、折り返しの着信だった。
「もしもし、村井です」
「神田です。ゆうべは、ありがとうございました」
「いえ」
「これから、伺います。美咲も、連れていきます」
「美咲ちゃんに、お話しになったんですか」
「ゆうべ、寝るまえに、最低限のところだけ」
「そうですか」
「あの子、何も訊かなかったんです」
「はい」
「何も訊かないのが、いちばん、こちらが訊かれているみたいでつらいです」
真琴さんの声は、二年前の書類のコピーの日とほとんど同じだった。
ほとんど同じなのに、ほんの少しだけ、声の低い場所が震えていた。
声の低い場所が震えるのは、覚悟のいちばん内側の現象だった。
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冷めかけた缶コーヒーを、もう一本買い直した。
冷めかけている缶コーヒーは、いちばん人間に似ている。
冷めきれなかった人間と、温まりきれなかった人間は、たいてい夜明けの待合のベンチにいる。
待合の自動ドアが、開いた。
ふたつの影が入ってきた。
ひとつは、二年前の真琴さん。
もうひとつは、二年前より少しだけ背の伸びた女の子だった。
二年前、僕は美咲ちゃんを最後に見ている。
最後に見た美咲ちゃんは、ランドセルが本人の半分くらいある大きさだった。
今日の美咲ちゃんは、ランドセルではなく紺色のリュックを背負っていた。
リュックは本人の半分よりも、ほんの少しだけ小さかった。
半分よりも小さいリュックを背負うというのは、子どもが子どもを卒業しはじめた合図だった。
「ジャンボおじさん」
美咲ちゃんはそう言った。
美咲ちゃんは僕のことを、二年前からジャンボおじさんと呼んでいた。
二年経ってもおじさんの部分が消えていなかったことに、僕はひそかに感謝した。
「お父さん、ここ?」
「うん」
「会える?」
「うん。会える」
僕は立ち上がった。
立ち上がりながら、上着の内ポケットのファスナーの上から、馬券の感触をもう一度確かめた。
ゼロが六つ。
六つのゼロは、まだ減らずにそこにあった。
病室のドアの前で、美咲ちゃんはふと立ち止まった。
立ち止まってから、こちらを見上げた。
「ジャンボおじさん」
「うん」
「お父さん、応援してたんでしょ」
「……うん」
「だったら、私も応援する」
美咲ちゃんはそう言った。
応援する、と彼女はもう一度繰り返した。
二年分のためていた声が、二年分のぶん、こちらに届いた。
ドアが開いた。
ハジメは相変わらず目を閉じていた。
目を閉じているハジメの隣に、ようやく娘が来た。
(第9話へ続く)




