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第7話 第二コーナー

 他人の人生は、たいていの場合、走っている馬の背中によく似ている。

 遠くから見ると誇らしげで、近くから見ると汗ばんでいる。

 遠近の違いを、人は信仰と生活と呼び分けている。


---


 馬の中で、僕はまだ生きていた。

 二千八百万円分の祈りは、僕の心臓と馬の心臓の両方を、半分ずつ回していた。


 第二コーナーを抜けたところだった。

 いや、抜けたところというのは、馬の感覚で言うとすこし不正確だ。

 馬はコーナーをひとつの長い濡れた紙のように感じる。

 濡れた紙は抜けるというよりも、剥がれる。

 剥がれた紙の向こう側に、向正面と呼ばれる平らな黒い帯のような直線が待っている。


 ナミダフクザツは向正面でいったん息を整えた。

 整えたというよりは、整えたふりをした。

 整えたふりというのは、まだ本気で走っていないということでもあった。


「君は」

 と僕は馬の中で声をかけた。

「まだ本気じゃないだろう」

「お前は、人の本気を見たことがあるのか」

 馬は淡々と答えた。

「あるよ」

「具体的に」

「二年前、自分が家に帰らなかった日の、自分の本気」

 馬はしばらく黙った。

 黙ったあとで、ふっと息を漏らした。

 馬の鼻息は笑いにいちばん近い。


---


 馬群の中で、僕の視界は人間のときの倍くらい広かった。

 左右に目がある。

 左右に目があるというのは、世界のほとんどぜんぶを同時に見ているということだ。

 同時に見ているのに、馬は人間より迷わない。

 迷わないのは、見えすぎているからなのか、見えすぎていることに馬が慣れているからなのか。

 わからない。


 左に葦毛の馬。

 右の少し後ろに栗毛の馬。

 前を二頭、走っていた。

 いちばん前は鹿毛で、たてがみの揺れ方が他の馬と違っていた。

 たてがみが誇らしい。

 誇らしさというのは、走っているとき、いちばんたてがみに出るらしい。


「あれが、キタノエンペラー」

 ナミダが頭の中でぽつりと教えてくれた。

「強い馬?」

「勝つために走るやつ」

「君と違って?」

「俺と違って」


---


 僕はキタノエンペラーのたてがみの揺れ方を見ていた。

 見ていると、ふっと、馬の中のもうひとりの僕の意識が糸を伸ばした。

 糸というのは便宜的な言い方で、実際はもっと湿った、ぬるい、温度のあるものだった。

 その糸が、エンペラーの首筋の汗の中にすっと入っていった。


「うるさいぞ」

 エンペラーの中の低い声がこちらに振り向いた。

「お前、誰だ」

「すみません」

 僕は人間のときによく使っていた口調で返事をした。

「すみません、ではない」

「すみません、として、すみません」

「お前、人間だな」

「はい」

「人間がどうしてここに」

「今日、ぜんぶ賭けて間違えました」

 エンペラーはしばらく沈黙した。

 沈黙のあとで、こう言った。

「俺は、勝つ」

「はい」

「俺は、勝つためにここにいる」

「はい」

「お前の馬は、勝つ気がない」

「……はい」

「勝つ気のないやつに首差で抜かれてやるほど、俺は礼儀正しくない」


---


 エンペラーの糸は、ぷつと切れた。

 切れた糸のささくれが、僕の馬の中の意識にしばらく残った。

 強い、と僕は思った。

 強いというのは、生まれたときから自分が勝つ側だと信じ続けていることだ。

 自分が勝つ側だと信じ続けることのできる人生は、あんがい少ない。


「あいつは、勝つ気で走っている」

 ナミダが僕に言った。

「うん」

「俺は、勝つ気で走っていない」

「うん」

「その差は、ハナ差より、ずっと大きい」


 ハナ差というのは、競馬の世界でいちばん小さい勝ち負けの単位だ。

 馬の鼻先がほんのわずかに前に出ている、その分の勝ち。

 ハナ差より大きい差というのは、世界がこちら側を向いてくれていない、ということだった。


 馬群の前のほうで、エンペラーのたてがみがもう一段揺れた。

 第三コーナーの入口が近づいていた。

 風が変わった。

 風が変わると、馬の汗の匂いも変わるらしい。


 勝つ馬には、勝つ理由がある。


 僕は馬の中で、その一文を自分の声で聞いた。

 自分の声というのは、二千八百万円分の祈りが、ようやく自分宛に戻ってきた声だった。

 戻ってきた声は、思っていたより低くて、思っていたよりすこしうるさかった。


(第8話へ続く)

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