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第6話 不在の矢野

 友人というのは、相手の電話に出ない権利をお互いに最後まで行使しない関係のことだ。

 というのは僕がいま勝手に思いついた定義で、ハジメに言っても伝わらない。

 あいつは人の電話をわりとあっさり切るほうの人間だから。


 村井むらい、三十七歳、独身、ジャンボ。

 本名は村井であだ名はジャンボ。

 体重は五十八キロ。

 あだ名と体重の差は二桁ある。

 二桁の差を中学のころから僕は意地で埋め続けている。

 なりたい自分というのは、こういう地味な意地でしか形にならない。


---


 その日、僕は池袋の事務機器の営業所で、コピー機の保守契約の更新書類を客先に届けて回っていた。

 土曜日である。

 土曜日にコピー機の保守契約の印鑑をもらいに行くというのは、社会人としてはわりとしょっぱい部類の仕事だ。

 しょっぱい仕事の合間に、しょっぱい人生の友人にこちらから電話をかけた。

 大学時代からの友人で、本名は矢野一やの・はじめ

 しょっぱさはしょっぱさを呼ぶ。

 厨房の塩のように。


「ハジメ、お前まさか競馬場じゃないだろうな」

「違う」

「嘘つけ。背景に音がしてる」

「ファンファーレが聞こえるだろ」

「だから競馬場だろうが」

 ハジメは僕の数少ない「嘘が下手な相手」で、つまり数少ない友人である。

「いくら賭けた」

「百万」

 次の客先のコピー機の裏蓋のネジが、その瞬間、勝手に床へ落ちた。

 コピー機はときどき人間より早く嫌な予感に反応する。

「お前さ」

「うん」

「お前、それ、命だぞ」

「分かってる」

「分かってねえだろ」

「分かってる。だから今日なんだ」

 だから今日なんだ。

 あいつがこういうセリフを言うとき、いつもの三倍くらい本気である。

 僕はしばらく黙って、自分の中で何かを整理しようとした。

 整理しきれないまま、口からこぼれた。

「終わったら飯おごるから、生きて帰ってこい」

「縁起でもないこと言うなよ」

「お前のほうが縁起でもない人生送ってんだよ」

 電話を切った。

 切ったあと、しばらくコピー機の前で立ち尽くしていた。

 今日のあいつの声には、いつもより一段低い場所で、本気の音が混ざっていた。


---


 次の客先のあと、僕は営業所に戻らずに府中行きの電車に飛び乗った。

 乗ったあとで自分が府中に行く理由を考えた。

 考えるまでもなかった。

 ハジメがいる場所には、たいてい僕がいるべき理由が転がっている。


 東京競馬場に着いたのは午後四時すぎだった。

 第十一レースはもう終わったあとだった。

 払戻機の前は人がまばらで、人がまばらな払戻機ほど世の中で寒い場所もない。

 ハジメが座る場所を僕は知っていた。

 ターフのスタンドのいちばん端のベンチ。

 あいつは人が少ない場所が好きだ。

 好きというより、人の多い場所にもうエネルギーが残っていないだけだ。


 ベンチの前に人だかりができていた。

 黄色い制服の係員が二人。

 白い救護スタッフの男が一人。

 無線機を持った私服の男が一人。

 ベンチの上に、横向きに倒れた、見覚えのある痩せた背中があった。

 着ているジャンパーの色を僕は知っていた。

 二年前、僕がブックオフで百八十円で買ってあいつにあげた紺色のジャンパーだった。


「あの」

 僕は係員に声をかけた。

「すみません、それ、僕の友人です」

 係員のおじさんが僕を見た。

 目がいっぺんに何かを判定する目だった。

「お名前、確認できますか」

「矢野一です」

「ご家族ですか」

「友人です。大学からの。いまいちばん近い人間です」

 係員のおじさんは、書類に何かを書きながらもう一度こちらを見た。

「いちばん近い、というのは」

「家族はいますが、いま住所は僕しか知りません」

 僕はそれをわりと平気な顔で言ったつもりだった。

 平気な顔で言うのが、ハジメといちばん長く付き合うコツだったからだ。


 ハジメの右手が、半分握ったまま胸の上に乗っていた。

 救護スタッフが体勢を整えたとき、その手のひらの中から、緑の小さな紙が一枚、ベンチの座面にすべり落ちた。

 僕はそれを拾った。

 単勝 七番 ナミダフクザツ 1,000,000円。

 ゼロが六つ。

 誰にも言わずに、自分の上着の内ポケットに入れた。

 ファスナー付きのほう。

 あとで本人に返すつもりだった。

 返すには、本人が起きてくる必要があった。


---


 救急車が来た。

 遠くから近づくサイレンは、自分のところに来るときだけ音の角が立っている。

 ストレッチャーがベンチに横付けされた。

 救急隊員がハジメの体を慣れた手つきで持ち上げた。

 息はしていた。

 目は開かなかった。

 目を開けないハジメを見るのは、僕の人生で初めてだった。

 あいつは寝ているときでさえ白目で薄目を開けて寝ている男で、夜行バスで隣に座ると寝つけない友人だった。

 その白目すら、いまは見えなかった。


「ご友人の方、同乗できますか」

「行きます」

 即答した。

 即答した自分の声が、思ったより低くて太かった。

 ジャンボと中学のころから自分で名乗ってきた声に、ようやくジャンボらしい太さが出ていた。

 なりたい自分というのは、こういう瞬間にこっそり追いついてくるものらしい。


 救急車の中で僕はハジメの手を握った。

 握ってすぐに後悔した。

 ハジメは握り返さなかった。

 握り返してこない手は、握っている側のほうが軽くなる。


「お友達、何か心当たりは」

「ストレスですかね」

「お薬とか」

「飲んでないと思います」

「お酒は」

「弱いんで、ほとんど」

 救急隊員のおじさんは淡々とメモを取っていた。

 メモを取る指の動きで、この人がこういうメモを毎日何枚も取っている人なんだと分かった。

 毎日メモを取る人が淡々としているおかげで、こちら側は淡々としていられる。

 世の中の淡々の総量は、誰かの淡々が引き受けている。


---


 病院に着いた。

 受付で、僕はハジメの代わりに書類を書いた。

 住所、本人の。

 電話番号、本人の。

 家族構成。

「ご家族の連絡先、分かりますか」

「えっと」

 ハジメの両親は十年前にたて続けに亡くなっている。

 兄弟はいない。

 元妻がいる。

 元妻にはもう二年以上会っていないはずだ。

 元妻の連絡先はハジメの携帯に入っている。

 ハジメの携帯はいま、ハジメのジャンパーのポケットの中にある。

 ハジメのジャンパーはいま、看護師さんがベッドサイドに畳んで置いている。


 看護師さんに頭を下げて、ジャンパーから携帯を取り出させてもらった。

 ロックはかかっていなかった。

 ハジメはこういうところだけ無防備な男だった。


 連絡帳を開いた。

 名前のところに「真琴」と、苗字なし、名前だけで登録されていた。

 苗字を消して名前だけにするのは、ハジメなりの未練の隠し方だった。

 通話履歴はない。

 二年と四ヶ月分、ない。


 深呼吸をひとつした。

 もうひとつした。

 ふたつの深呼吸のあいだに、僕の中で何かが手続きされた。

 友人としていちばんやりたくない仕事をやる、という手続きだった。


 通話、を押した。


---


 元奥さんは三コール目で出た。

 声は覚えていたよりも低かった。

「もしもし」

「あの、矢野の友人の村井です。大学からの」

「……」

「いまの状況、お伝えしてもいいですか」

 元奥さんはしばらく黙った。

 黙ってから「はい」と短く返事をした。

 はい、の中に二年と四ヶ月分のいろいろな感情が詰まっていた気がした。

 詰まっていたが、僕にはそれをほどく権利がなかった。


 状況を淡々と伝えた。

 救急車の人みたいに淡々と伝えるのが、いちばん相手を楽にする方法だと、さっき覚えたばかりだった。


「美咲には」

 元奥さんは最後にぽつりと言った。

「美咲には、まだ伝えないでください。今日は、伝えないでください」

「分かりました」

「明日、こちらから連絡します」

 電話は切れた。

 切れた電話の向こうで、誰かが深呼吸をふたつしていた気がした。

 深呼吸の数は、世の中で人が思っているよりも多く消費されている。


---


 ハジメは検査室に入っていた。

 待合の長椅子に僕は座った。

 看護師さんがハジメの鞄を脇に置いていった。

「これ、ご友人の方、預かっていただけますか」

「はい」

 黒い、合皮の、安いビジネスバッグだった。

 角の縫い目がほつれていて、ファスナーの引き手は片方ちぎれていた。

 ハジメの人生の縮図みたいな鞄だった。

 縮図、という言い方は本人に向かっては絶対に言わない。


 ファスナーを開けた。

 他人の鞄を勝手に開けるのは、人としてはわりとアウトだ。

 アウトだが、いまハジメの中身を確認できる人間は僕しかいなかった。


 中身は思ったよりも少なかった。


 競馬新聞、一部。赤鉛筆でぐちゃぐちゃに印がつけてある。

 ガムが半分使ったやつ。

 タバコはなかった。あいつは去年やめたはずだ。

 使い捨てカイロが未使用でひとつ。

 四月のもう要らないやつだった。

 あいつは季節をちゃんと追えていない。


 それから、薄い、白い封筒が一通。

 封はされていなくて、口だけが二つに軽く折ってあった。

 封筒の表に、ハジメの字でひと言だけ書いてあった。


 「美咲へ」


 三文字だった。

 三文字の重さが、僕の膝の上で八階建てのビルみたいに立った。


 封筒を開けなかった。

 開けるのがこわかったわけではない。

 開けたら、ハジメのある決断に立ち会ってしまうと思った。

 立ち会ってしまうと、ハジメが目を覚ましたとき、目を合わせられない。

 友人というのは、相手のいちばん深い決断には最後まで立ち会わないでいてやる関係のことだ、と僕は勝手に思っている。

 それも僕が勝手に思いついた定義のひとつである。


 ただ、ひとつだけ考えた。

 ハジメは今日のレースのあとに、これを誰かに託すつもりだった。

 託すつもりだったということは、託したあとは自分はいなくなるつもりだった、ということだ。

 いなくなるつもりだった人間が、いま、目の前で息だけはしている。

 息だけはしている人間の息のリズムを、長椅子の上からじっと聞いていた。

 息のリズムは思ったよりも強かった。

 息の強さは、本人の意志とは別のところで決まっている。


 検査室の扉の向こうで、ハジメは何をしているのだろうと思った。

 あいつはいま、どこにいるのだろうと思った。

 目の前に息をしているハジメがいる。

 いるのに、いない。

 不在の矢野、というのはこういう状態のことを言うのだと、僕は初めて知った。


 膝の上の白い封筒に、もう一度目を落とした。


 美咲へ、と書かれた、薄い、薄い、紙だった。


(第7話へ続く)

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