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第5話 パドックの老婦人

 歳をとると、「順番」のことばかり考えるようになる。

 誰が先に逝って、誰があとに残るか、というあの順番である。

 あんがい、自分のことより、関係のない人の名前から先に心配する。

 たとえば、馬の名前。


 夏目静なつめ・しずか、七十七歳、未亡人。

 北海道日高、新冠町にいかっぷちょう、夏目牧場の、二代目女主人である。

 二代目、というのは、夫から数えての話で、夫の父から数えれば、三代目になる。

 数え方は、立場によって、変わる。

 立場は、人が死ぬたびに、ひとつずつ、ずれていく。

 そして、ずれた立場の総量を、人は「老い」と呼んでいるらしい。


 ハンドバッグの中身は、口紅と、ハンカチと、心臓の薬と、夫の写真と、緑色の馬券一枚と、夏目牧場の馬主登録証の写し。

 馬主登録証は、夫の名前のままだ。

 名義書き換えの手続きは、あらかた済んでいるが、「生産者馬主」というやつは、書類が多い。

 書類が多いというのは、たぶん、農林水産省と、JRAと、税務署の、お互いの不信感の総量である。

 不信感の量は、紙の枚数で、ちゃんと、可視化される。


---


 パドックの、いちばん外側に、私は立っている。

 大きな帽子を、かぶっている。

 季節違いの、夏の帽子だ。

 帽子は、夫の遺品だ。

 夫が亡くなったとき、形見分けで、誰もこの帽子を欲しがらなかった。

 頭が大きすぎたのだ、夫は。

 夫の頭は、最後まで、誰のサイズにも合わなかった。

 今は私の頭に、輪ゴム二本でずれを止めて、ようやく乗っている。


 パドックの奥で、騎手の佐伯さんが、こちらに頭を下げてくれた。

「巧くん、今日は」

「はい。今日は、行けたら、行きます」

 佐伯さんは、いつも「行けたら行く」と言う。

 行けない日のことを、最初に言ってくれる人だ。

 優しい人である。

 優しい人は、たいてい、優しすぎる。


---


 夫の名前は、夏目治なつめ・おさむといった。

 もともとは、苫小牧の運送会社のサラリーマンだった。

 夫の父——つまり義父——が、新冠で、小さな牧場をやっていて、夫は、長男だった。

 長男、というのは、北海道では、わりと、重い肩書きだ。

 義父が、心臓で倒れたのが、夫が四十二歳のとき。

 夫は、五年悩んで、四十七歳のときに、会社を辞めて、私を連れて、新冠に戻った。

 移住の日、トラックに、本と、布団と、鍋と、私の口紅が積まれていた。

 夫の口紅は、なかった。

 当然である。


 牧場、と言っても、繁殖牝馬が、最大で六頭。

 日高の標準で言うと、いちばん下のほうに位置する規模である。

 この規模で、生産者として、競走馬を中央のレースに送り出す、というのは、要するに、毎年、宝くじを買い続ける、というのと、似ている。

 宝くじは、当たれば、生活が変わる。

 外れても、生活は、続く。

 ただ、当たらない宝くじを、四十年連続で買い続けることは、思ったよりも、人間を疲れさせる。

 夫は、最後の十年、ずっと、疲れていた。


---


 夫が、生産者として、走らせた馬の中で、私がいちばん覚えているのは、ハナミダレ、という、桜色の名前の、牝馬だった。

 夫の代になって、初めて、自家生産で名づけた、最初の子だった。

 走っているところを、私は一度しか見ていない。

 春の中山競馬場、新馬戦、十二着のうちの十一着。

 最後の直線、ハナミダレは、本当に、桜の花びらが、風に流されるみたいに、走っていた。

「桜は、勝たなくていい」

 夫は、ぽつりと、そう言った。

 桜は、勝たなくていい。

 私は、その言葉が、そのまま夫の人生の標語みたいだ、と、こっそり思った。


 ハナミダレは、結局、五戦して、勝てなかった。

 脚を悪くして、繁殖入りになった。

 牧場に戻ってきたハナミダレを、夫は、何度も、撫でていた。

 撫でながら、「お疲れさん」「お疲れさん」と、何度も、言っていた。

 夫の「お疲れさん」は、「ごめんな」と、ほとんど同じ発音で、出来ていた。


---


 ハナミダレに、子をつけることになった。

 種付けの相手——種牡馬の選定は、生産者の、いちばん大きな仕事だ。

 夫は、何ヶ月もかけて、種牡馬名鑑をめくっていた。

 名鑑は、本棚の二段ぶん、占めていた。


 最終的に、夫が選んだ相手は、「キタノエイユウ」という、まあまあ有名な種牡馬だった。

 まあまあ、というのは、G1を一勝した、という、馬の世界では立派だが、種牡馬としては中の下、という意味である。

 種付け料は、当時の夏目牧場の、年間の電気代と、ほぼ同じだった。

「あなた、本当に、それでいいんですか」

「いい」

「もうちょっと、安いほうも、あるんじゃないですか」

「いる」

「いる、って、どういうことです」

「ハナミダレに、ちゃんと、立派な父親を、用意してやりたい」

 夫の判断基準は、家計簿には、絶対に乗らない種類の、正しさだった。


 翌年、ハナミダレは、子を産んだ。

 黒鹿毛の、痩せた、目つきの悪い、男の子。

 目つきは、たぶん、生まれつきだった。

 目つきの悪さは、遺伝しなかったが、伝染した。

 馬の目つきは、たぶん、母の苦労と、父のプレッシャーが、半分ずつ、刻まれて出来ている。


---


 名前を、つけることになった。

 生産者馬主の特権で、夫が、一人で、決められた。

 夫は、何日か、ノートに、いろんな名前を書いていた。

「桜の続き、にしたいんだ」

「ハナミダレの、続きですか」

「ハナミダレの、ハナの後ろを、つなぎたい」

 夫は、ノートに、こう書いた。


 ハナ、ミダレ、ナミダ、フクザツ。


「桜が乱れて、涙が、複雑」

「複雑?」

「桜の涙は、たぶん、ぜんぶ、複雑だろう」

 私は、夫の作るその名前を、最初は、好きになれなかった。

 でも、夫は、首を振った。

「強そうな名前は、強そうなやつに任せればいい」

「あなたねえ」

「俺は、母さんに、まだ世界にいてほしいんだ。母さんが世界にいる理由を、息子の名前にしておきたい」


 夫が、自分の母親の話を、馬の親仔の話に、いつのまにか混ぜていた、と私が気づいたのは、夫が亡くなったあとである。

 夫の母——義母——は、夫が中学生のころに、亡くなっていた。

 走るのが好きで、足の速い人だった、と、夫は、いつか、ぽつりと言ったことがある。

 夫の人生は、託す、託す、託す、で、できていた。


---


 ナミダフクザツが、二歳になった年の秋、夫は、倒れた。

 膵臓だった。

 膵臓は、夫の人生で、いちばん、地味な臓器だった。

 いちばん地味な臓器が、いちばん最後に、夫を裏切った。


 病室で、夫は、競馬新聞ではなく、牧場の収支表を、読み続けていた。

 点滴の管を腕につけたまま、赤鉛筆で、印をつけていた。

「あなた、もう、それは、いいから」

「いや、これは、俺の仕事だから」

「あとは、私が、引き継ぎますから」

 夫は、しばらく黙った。

 黙ってから、ぽつりと、言った。

「静、すまん」

「何がです」

「お前を、ここに、連れてきた」

「あら、それ、今さらですか」

「お前を、馬のいる場所に、置きっぱなしにする」

「置きっぱなしじゃ、ないでしょう」

 私は、なるべく、軽く、言ったつもりだった。

 軽く言うのが、夫を、いちばん、楽にする方法だと、長い結婚生活で、覚えていた。


 亡くなる、二日前だった。

しず

「はい」

「ひとつ、頼みがある」

「はい」

「あの子に、一度でいいから——」

 夫は、しばらく、息をついた。

「——勝つ景色を、見せたい」

 私は、はい、と返事をした。

 夫の頼みごとを、私が断ったことは、五十年で、一度もない。

 頼みごとのほうが、たぶん、遺言よりも、重い。


---


 ナミダフクザツは、それから、五戦、未勝利を続けている。

 調教師は、二度、交代した。

 騎手は、三人目で、佐伯さんになった。


 牧場は、私が引き継いだ。

 というのは、表向きの言い方で、実態は、近所の同業者と、義弟と、JAと、町役場の、四方向に、頭を下げ続けて、なんとか、回している状態である。

 繁殖牝馬は、三頭まで減らした。

 ハナミダレは、その三頭の中に、ぎりぎり、残っている。


 先月、調教師の先生から、電話があった。

「夏目さん」

「はい」

「ナミダの件なんですが」

「はい」

「次のレースで、結果が出なかった場合は——引退、ということも、ご相談、しなければなりません」

 調教預託料、輸送費、装鞍料、登録維持費。

 牧場の収支表に、ナミダの名前で並んでいる支出を、私は、毎月、家計簿のように、つけている。

 もう、引き算が、足し算に、追いつかない。


 次のレースが、今日である。


---


 パドックを回るナミダの様子を、私は、目で追っている。

 いつもなら、耳を後ろに伏せている子が、今日は、耳を、立てている。

 立っている、というより、ぴくぴく、動いている。

「お母さんに、似てきたわね」

 私は、声に出さずに、ナミダに、話しかけた。

 ナミダは、私のことを、見もしなかった。

 見もしなかったが、耳の片方が、ほんの一瞬、こちらに、向いた気がした。

 牧場で、生まれた瞬間から、私は、この子の名前を、何千回、呼んだか、分からない。

 名前を呼ばれた回数だけは、たぶん、この子は、覚えてくれている。


 帽子のつばを、私は、ぐっと、押さえた。

 風が、強くなってきた。

 日高で吹いていた風と、東京競馬場で吹く風は、においが、まったく違う。

 ただ、馬たちの背中で揺れているたてがみだけは、たぶん、同じ動き方をする。


---


 馬たちが、ゲートに、収まっていく。

 ナミダが、今日に限って、わりと素直に、入っていく。

 誰かが、それを「縁起がいい」と笑った。

 私は、笑えなかった。


 ハンドバッグの中の、馬券に、私は、指を、軽くあてた。

 千円分の祈り。

 その下に、馬主登録証の写し。

 夫の名前と、私の名前が、両方とも、印字されている、過渡期の書類である。


 ファンファーレが、鳴った。

 ゲートが、開いた。

 夏目牧場で、生まれて、夏目牧場で、名前をつけられて、夏目牧場の収支を、毎月、ぐらつかせている、黒鹿毛の、痩せた、目つきの悪い、私たちの馬が、その中にいた。


 走る景色を、私は、何度も見てきた。

 でも、勝つ景色は、まだ、一度も、見ていない。


 あなた、と、私は、心の中で、もう亡くなってしまった人に、話しかけた。

 あなた、見ていますか。

 今日が、あの子の、最後のレースに、なるかもしれません。


(第6話へ続く)

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