表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/14

第4話 馬と男の交渉

 「なぜ」という質問は、たぶん、人類が発明した、いちばん面倒な質問である。

 そして馬に対しては、たぶん、いちばん通じない質問でもある。

 犬猫が相手でさえ、「なぜ」が通じた経験は、僕の三十七年でゼロだ。それを今、五百キロの動物に対してやろうとしている。

 ちなみに動物のほうは、全力疾走中である。


 第二コーナーに、僕たちは差し掛かっていた。

 僕たち、というのは、僕とナミダフクザツという二人組のことで、つまり、一頭。

 位置は、後方。

 いつもの僕の人生と、だいたい同じ位置だった。

 馬の体は、後ろにいることに、特に焦っている様子がなかった。むしろ、のんびりしていた。「俺は今、レースに参加しているのではない、レースの近くにいるだけだ」と言いたげな走りだった。

 その近所付き合いみたいなスタンスを、二千八百万円分の祈りで、これからひっくり返さなければいけない。

 近所付き合いをひっくり返すというのは、人間関係でも、けっこうな大事である。


「あの」

 僕は、心の中で、もう一度、馬に話しかけた。

 返事はなかった。

「ナミダ」

 今度は、さん付けをやめた。前回、丁寧すぎると怒られた気がしたからだ。

「なんだ」

 馬は、面倒くさそうに答えた。

「さっきの話だけどさ」

「さっきの話なんて、してない」

「したよ。お前が、勝ちたくない、って」

「ああ」

「ああ、じゃなくて」

「まだ走ってるんだ。話しかけるな」

「走りながらでいいから、ちょっと聞かせてくれ」

「うるさい」

 うるさい、は、ナミダのお気に入りのフレーズらしかった。家庭の中の標語みたいな響きさえあった。

「お前さあ」

 馬は、めずらしく、続けた。

「上のやつにも、聞こえてるみたいだぞ」

「上の」

「鞍の上のやつだ」

 佐伯さん、と僕は思った。

 背中の騎手のおじさんは、さっきからときどき、首を、わずかに、傾げている。風の音じゃないものを聞こうとしている人の傾げ方だった。

「気をつけろ。声、漏らすな」

「は、はい」

 馬に注意されながら、僕は、大人になって初めて、声の出し方を考えた。


 すぐ右側を、別の馬が一頭、通り抜けていった。

 ぞっ、と空気が動いた。馬の感覚で空気が動くのを感じるのは、人間のときの「人が通り過ぎる」とは比べものにならないほど、立体的だった。匂い、毛の音、蹄の振動が、ひとつの塊で通過していった。

 通り過ぎていった馬は、僕たちのことを、横目で見もしなかった。

 たぶん視界には入っていた。視界に入っていて、興味がなかった。

 馬同士にも、序列があるのだと、僕は理解した。

 ナミダは、序列でいうと、たぶん、わりと下の方にいる。


「ナミダ」

「うるさい」

「お前、悔しくないのか」

 馬は、ふん、と鼻を鳴らした。

「今、抜かれたぞ」

「俺は走ってるだけだ。レースには出てない」

「出てるよ。お前、レースに出てる」

「気持ちの問題だ」

 馬は、淡々と言った。

「俺は、走ってるだけ、というスタンスを変えるつもりはない」


 いまのうちに、ひとつ確認しておかなければいけないことがあった。

 僕は、人生で何度も「なぜ」に殺されてきた。

 なぜ、潰れる会社の連帯保証を引き受けたのか。

 なぜ、妻に、養育費の話を先送りにしたのか。

 なぜ、競馬場に毎週、来てしまうのか。

 ひとつでも納得のいく答えがあれば、僕は、たぶん、こんな場所にはいなかった。

 馬に「なぜ」は通じないかもしれない。

 でも、人間の僕にも通じてこなかった「なぜ」を、馬になら、ぶつけられるかもしれない、と思った。

 たぶん、これは、僕の人生で、最後の「なぜ」だ。


「ナミダ」

「うるさい」

「なぜ、勝ちたくないんだ」

 馬は、しばらく、黙った。

 馬の沈黙は、人間の沈黙と、少し違う。蹄の音が四つ、リズムを崩さずに地面を叩き続けているだけで、それが返事の代わりになっている、と感じる沈黙だった。

 第二コーナーの、ちょうど真ん中あたりだった。


「お前」

 馬は、ぽつりと言った。

「人間か」

「人間だ」

「金が、ほしいのか」

「ほしい」

「いくら」

「二千八百万」

 馬は、ふん、ともう一度、鼻を鳴らした。

「人間の数字は、よく分からん」

「そうだろうな」

「ただ、金の話をしている人間の声だけは、分かる」

「ああ」

「同じ匂いがする。前にも、嗅いだことがある」

 馬は、走りながら、何かを思い出すようなを取った。

 そのあいだも、四本の蹄は、休まずリズムを刻んでいた。

「金の他に、ほしいものはあるのか」

 馬は、ふいに、訊いてきた。

 僕は、答えに、少し迷った。

 迷った、というより、答えはひとつしかなかったのに、それを馬に言うのが、なんだか恥ずかしかったのだ。

「娘がいる」

「娘」

「美咲、っていう。小学五年だ」

「うん」

「二年、会えていない」

「うん」

「会いたい」

「うん」

 馬は、ふん、と鼻を鳴らした。

 今度は、さっきまでの「うるさい」のときの鼻息と、少し違った。

 湿った、というか、温度のある鼻息だった。


「俺の名前は」

 馬は、ようやく、本題に戻った。

「ナミダフクザツだ」

「うん」

「ナミダ、複雑、と書くらしい」

「うん」

「俺の名前を見て、笑ったやつが、何人かいる」

「それは……」

「笑ったやつが、いる」

 馬は、低い声で、もう一度言った。

 馬の中で、何かが、ざらりとした。

 馬の感情が、馬の血管を通って、四本の足の先まで降りていく感覚だった。

 馬の悲しみは、人間の悲しみより、足が長い。


「俺の名前は、笑うためにつけられたんじゃない、と聞いている」

 馬は、淡々と続けた。

「俺の母さんは、強い馬じゃなかった」

「うん」

「早くに走るのをやめさせられて、子を産む役目になった」

「うん」

「それでも、母さんを競馬の世界から、追い出したくなかった人が、いたらしい」

「うん」

「だから、俺が生まれた」

「うん」

「俺は、母さんが、競馬の世界にまだいられるための、理由みたいなものだ」

 馬は、走りながら、息を整えた。

 馬の息は、いつものリズムを崩さなかった。

 崩さなかったが、ほんの少しだけ、湿っていた。


「俺は、母さんに似ていない」

「……うん」

「俺は、走るのは好きだ。母さんが、走るのが、好きだったから」

「うん」

「ただ」

 馬は、第二コーナーを抜けた瞬間、首を、ひとつ振った。

 第三コーナーの、入り口だった。

 風が変わった。

 走るリズムも、ほんの一拍だけ、変わった。


「俺が勝つと、誰かが泣く」


 馬は、はっきりと、言った。

 走るリズムは、すぐにもとに戻った。

 でも、僕の——僕たちの——背中の、ずっと奥のほうで、何かが、震えた。

 風だったのか、心臓だったのか、馬の声だったのか、判別はつかなかった。

 ただ、ひとつだけ、分かったことがあった。

 二千八百万円分の祈りは、たぶん、神様にとっても、けっこう、複雑だ。


(第5話へ続く)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ