第4話 馬と男の交渉
「なぜ」という質問は、たぶん、人類が発明した、いちばん面倒な質問である。
そして馬に対しては、たぶん、いちばん通じない質問でもある。
犬猫が相手でさえ、「なぜ」が通じた経験は、僕の三十七年でゼロだ。それを今、五百キロの動物に対してやろうとしている。
ちなみに動物のほうは、全力疾走中である。
第二コーナーに、僕たちは差し掛かっていた。
僕たち、というのは、僕とナミダフクザツという二人組のことで、つまり、一頭。
位置は、後方。
いつもの僕の人生と、だいたい同じ位置だった。
馬の体は、後ろにいることに、特に焦っている様子がなかった。むしろ、のんびりしていた。「俺は今、レースに参加しているのではない、レースの近くにいるだけだ」と言いたげな走りだった。
その近所付き合いみたいなスタンスを、二千八百万円分の祈りで、これからひっくり返さなければいけない。
近所付き合いをひっくり返すというのは、人間関係でも、けっこうな大事である。
「あの」
僕は、心の中で、もう一度、馬に話しかけた。
返事はなかった。
「ナミダ」
今度は、さん付けをやめた。前回、丁寧すぎると怒られた気がしたからだ。
「なんだ」
馬は、面倒くさそうに答えた。
「さっきの話だけどさ」
「さっきの話なんて、してない」
「したよ。お前が、勝ちたくない、って」
「ああ」
「ああ、じゃなくて」
「まだ走ってるんだ。話しかけるな」
「走りながらでいいから、ちょっと聞かせてくれ」
「うるさい」
うるさい、は、ナミダのお気に入りのフレーズらしかった。家庭の中の標語みたいな響きさえあった。
「お前さあ」
馬は、めずらしく、続けた。
「上のやつにも、聞こえてるみたいだぞ」
「上の」
「鞍の上のやつだ」
佐伯さん、と僕は思った。
背中の騎手のおじさんは、さっきからときどき、首を、わずかに、傾げている。風の音じゃないものを聞こうとしている人の傾げ方だった。
「気をつけろ。声、漏らすな」
「は、はい」
馬に注意されながら、僕は、大人になって初めて、声の出し方を考えた。
すぐ右側を、別の馬が一頭、通り抜けていった。
ぞっ、と空気が動いた。馬の感覚で空気が動くのを感じるのは、人間のときの「人が通り過ぎる」とは比べものにならないほど、立体的だった。匂い、毛の音、蹄の振動が、ひとつの塊で通過していった。
通り過ぎていった馬は、僕たちのことを、横目で見もしなかった。
たぶん視界には入っていた。視界に入っていて、興味がなかった。
馬同士にも、序列があるのだと、僕は理解した。
ナミダは、序列でいうと、たぶん、わりと下の方にいる。
「ナミダ」
「うるさい」
「お前、悔しくないのか」
馬は、ふん、と鼻を鳴らした。
「今、抜かれたぞ」
「俺は走ってるだけだ。レースには出てない」
「出てるよ。お前、レースに出てる」
「気持ちの問題だ」
馬は、淡々と言った。
「俺は、走ってるだけ、というスタンスを変えるつもりはない」
いまのうちに、ひとつ確認しておかなければいけないことがあった。
僕は、人生で何度も「なぜ」に殺されてきた。
なぜ、潰れる会社の連帯保証を引き受けたのか。
なぜ、妻に、養育費の話を先送りにしたのか。
なぜ、競馬場に毎週、来てしまうのか。
ひとつでも納得のいく答えがあれば、僕は、たぶん、こんな場所にはいなかった。
馬に「なぜ」は通じないかもしれない。
でも、人間の僕にも通じてこなかった「なぜ」を、馬になら、ぶつけられるかもしれない、と思った。
たぶん、これは、僕の人生で、最後の「なぜ」だ。
「ナミダ」
「うるさい」
「なぜ、勝ちたくないんだ」
馬は、しばらく、黙った。
馬の沈黙は、人間の沈黙と、少し違う。蹄の音が四つ、リズムを崩さずに地面を叩き続けているだけで、それが返事の代わりになっている、と感じる沈黙だった。
第二コーナーの、ちょうど真ん中あたりだった。
「お前」
馬は、ぽつりと言った。
「人間か」
「人間だ」
「金が、ほしいのか」
「ほしい」
「いくら」
「二千八百万」
馬は、ふん、ともう一度、鼻を鳴らした。
「人間の数字は、よく分からん」
「そうだろうな」
「ただ、金の話をしている人間の声だけは、分かる」
「ああ」
「同じ匂いがする。前にも、嗅いだことがある」
馬は、走りながら、何かを思い出すような間を取った。
そのあいだも、四本の蹄は、休まずリズムを刻んでいた。
「金の他に、ほしいものはあるのか」
馬は、ふいに、訊いてきた。
僕は、答えに、少し迷った。
迷った、というより、答えはひとつしかなかったのに、それを馬に言うのが、なんだか恥ずかしかったのだ。
「娘がいる」
「娘」
「美咲、っていう。小学五年だ」
「うん」
「二年、会えていない」
「うん」
「会いたい」
「うん」
馬は、ふん、と鼻を鳴らした。
今度は、さっきまでの「うるさい」のときの鼻息と、少し違った。
湿った、というか、温度のある鼻息だった。
「俺の名前は」
馬は、ようやく、本題に戻った。
「ナミダフクザツだ」
「うん」
「ナミダ、複雑、と書くらしい」
「うん」
「俺の名前を見て、笑ったやつが、何人かいる」
「それは……」
「笑ったやつが、いる」
馬は、低い声で、もう一度言った。
馬の中で、何かが、ざらりとした。
馬の感情が、馬の血管を通って、四本の足の先まで降りていく感覚だった。
馬の悲しみは、人間の悲しみより、足が長い。
「俺の名前は、笑うためにつけられたんじゃない、と聞いている」
馬は、淡々と続けた。
「俺の母さんは、強い馬じゃなかった」
「うん」
「早くに走るのをやめさせられて、子を産む役目になった」
「うん」
「それでも、母さんを競馬の世界から、追い出したくなかった人が、いたらしい」
「うん」
「だから、俺が生まれた」
「うん」
「俺は、母さんが、競馬の世界にまだいられるための、理由みたいなものだ」
馬は、走りながら、息を整えた。
馬の息は、いつものリズムを崩さなかった。
崩さなかったが、ほんの少しだけ、湿っていた。
「俺は、母さんに似ていない」
「……うん」
「俺は、走るのは好きだ。母さんが、走るのが、好きだったから」
「うん」
「ただ」
馬は、第二コーナーを抜けた瞬間、首を、ひとつ振った。
第三コーナーの、入り口だった。
風が変わった。
走るリズムも、ほんの一拍だけ、変わった。
「俺が勝つと、誰かが泣く」
馬は、はっきりと、言った。
走るリズムは、すぐにもとに戻った。
でも、僕の——僕たちの——背中の、ずっと奥のほうで、何かが、震えた。
風だったのか、心臓だったのか、馬の声だったのか、判別はつかなかった。
ただ、ひとつだけ、分かったことがあった。
二千八百万円分の祈りは、たぶん、神様にとっても、けっこう、複雑だ。
(第5話へ続く)




