第9話 第三コーナー
踏み込めない、というのは、世界でいちばん礼儀正しい臆病さのかたちだ。
礼儀正しいのに臆病、というのは、つまり、世間に対しては優しくて、自分に対してはあまり優しくない、ということだ。
優しくない側の自分が、優しい側の自分を奥のほうにしまい込んでいる人間は、いつか第三コーナーで世界と向き合うことになるらしい。
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[矢野・馬の中で]
第三コーナーのふくらみのいちばん奥で、僕たちは走っていた。
僕たちというのは、僕と、ナミダフクザツと、二千八百万円分の祈り、の三つだ。
三つはどれも、走っているふりはしていたが、誰も踏み込んではいなかった。
「踏み込めない」
ナミダはぽつりと言った。
「うん」
「踏み込みかたを忘れた」
「うん」
「いや、忘れたというよりは、踏み込んだら何が起こるかがこわい」
「……うん」
僕はそのうんを、自分にもひっそり向けた。
二千八百万円をつくってしまった人生は、踏み込み続けてきた人生ではない。
踏み込まないように踏み込まないように、と保証印を押し続けた人生だった。
保証印は、押せば押すほど、押した人間の輪郭を薄くしていく。
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[佐伯・騎手]
佐伯巧は第三コーナーのふくらみで、ナミダフクザツの首筋を軽く撫でていた。
撫でていたというよりは、手綱に自分の迷いを軽く預けていた。
迷いを馬に預けるというのは、あまり誇れる騎乗ではない。
ないと知っていながら、佐伯は五十年の人生でそれを何度もしてきた。
「行けたら、行く」
佐伯は口の中でつぶやいた。
行けたら行く、と佐伯はいつも言う。
行けない日のことを最初に言ってしまう人間だった。
今日もそうだった。
ただ、今日は馬の様子がいつもと少しだけ違っていた。
耳の立ち方が違う。
たてがみの揺れ方が違う。
走るリズムの踏み変えが違う。
馬が自分の中で何かを相談しているような走り方だった。
佐伯は鞭を握り直した。
鞭は佐伯の手の中でいちばん軽いものだった。
軽すぎる鞭を、佐伯は三十年振り抜けないままでいた。
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[美咲・スタンド]
美咲はスタンドのいちばん下の手すりに、両手でつかまっていた。
手すりは冷たかった。
冷たいのに、彼女の手のひらは汗ばんでいた。
汗ばむというのは、子どもが覚悟をするときのいちばん最初のしるしだった。
今日、彼女はお母さんに嘘をついてここに来ていた。
嘘は、図書館に行く、だった。
図書館は、彼女が唯一自由に嘘の使える場所だった。
図書館と言えば、お母さんはたいてい頷く。
頷くのは、お母さんが図書館を信じているのではなくて、彼女のことを信じているからだった。
信じている、を利用するのは悪いことだ、と彼女は知っていた。
知っているのに、今日は悪いことをしたかった。
お父さんはここにいる。
彼女はそれを根拠なく信じていた。
根拠なく信じるというのは、子どものいちばん得意な仕事だ。
昨日、彼女は、二年前にお父さんが書きかけて出さなかったハガキの住所欄に、東京競馬場と書かれているのを見つけていた。
見つけたあとで、見つけなかったことにするつもりだった。
見つけなかったことにしきれずに、彼女は今、ここにいた。
馬たちが第三コーナーのふくらみを抜けようとしていた。
いちばん前を走っている鹿毛の馬は、誇らしげに首を揺らしていた。
そのすこし後ろを、痩せた黒鹿毛の馬が走っていた。
目つきの悪いその馬のゼッケンは七番だった。
七番を、彼女は知らなかった。
知らなかったのに、彼女の両手の手のひらだけが、その七番に向かって汗を増やしていた。
「お父さん」
彼女は声に出さずに呼んだ。
声に出さずに呼んだお父さんは、彼女の人生でいちばん大きな踏み込みだった。
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[クロス・直線へ]
第三コーナーの出口が近づいた。
馬群がふたたび収束した。
佐伯は鞭の握りを少しだけ強めた。
強めたあとで、もう一度迷った。
ナミダは首をひとつ振った。
矢野は馬の中で、二千八百万円分の空気を肺のいちばん奥まで吸い込んだ。
美咲は手すりにつかまる手を、少しだけ握り直した。
直線が近かった。
直線というのは、競馬の世界でいちばん嘘の通用しない距離である。
嘘の通用しない距離が近づいていた。
四人とも——馬と人間と騎手と娘と——同時に息を吸った。
直線へ、と誰かが声に出した。
声に出したのは、実況の声だったかもしれないし、神様の咳払いだったかもしれないし、もう誰のものでもなかったかもしれない。
(第10話へ続く)




