第13話 戻ってきた男
目を覚ますという動作は、人生で何回もしているわりに、なぜか覚えにくい。
眠るのほうは毎晩のようにしているのに、目を覚ますのほうは、毎朝はじめてするみたいに新鮮だ。
目を覚ますというのは、自分の人生に毎回はじめましてを言い直す、ということだ。
はじめましてを何千回繰り返しても、人間は自分自身に慣れない。
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最初に戻ってきた感覚は、まぶたの重さだった。
まぶたは思っていたよりずっと重かった。
まぶたを開けるという動作は、馬の中で四本の足を地面に下ろす動作よりずっと難しかった。
次に戻ってきたのはにおいだった。
消毒薬と、リネンと、自販機のぬるいコーヒーのにじみ出たような、混ざったにおい。
病室のにおいだった。
病室のにおいの中に、もうひとつ知っているにおいが混ざっていた。
二年前まで毎日、僕の部屋にあったにおいだった。
子どもの髪の毛のにおいだった。
「お父さん」
声がした。
声はまぶたよりもずっと軽く、僕の中に入ってきた。
「お父さん、お父さん」
まぶたをようやく開けた。
白い天井が見えた。
白い天井のすぐ下に、十一歳の女の子の顔があった。
二年分背の伸びた顔だった。
二年前より、ほんの少しお母さんに似てきていた。
「美咲」
僕は自分の、二年ぶりの声を聞いた。
自分の声は、思っていたより低くて、思っていたよりすこし震えていた。
美咲は何も言わずに、両手で僕の右手を握った。
握った瞬間、彼女の手のひらは汗ばんでいた。
汗ばむ手は、子どもが覚悟をしているときのいちばん最初のしるしだった。
二年前の彼女の手よりずっと大きくなっていた。
大きくなった手で握り直された右手は、二年分ぬくかった。
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ベッドの足元の側に、もうひとり立っていた。
神田真琴。
二年ぶりの元妻だった。
「矢野さん」
彼女は神田ではなく、矢野と呼んだ。
ふっと間違えたというよりは、二年前のクセが二年経ってもまだ抜けていなかった、ということだった。
「真琴さん」
「ジャンボさんから、連絡をもらいました」
「すみません」
「謝るのは、まだ早いです」
「はい」
「謝ることは、これからたくさんありますから」
「……はい」
真琴さんは笑わなかった。
笑わなかったが、ほんの少しだけ、肩のいちばん上のほうの力が抜けた。
肩の力が抜けるというのは、彼女が長いあいだしまっていた何かの、いちばん最初のほどけかただった。
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ベッドの横に、ジャンボが立っていた。
二年ぶり、ではなくて、ほんの一日ぶりだった。
一日ぶりのジャンボは、一日前のジャンボよりずっと痩せて見えた。
痩せ型なのにジャンボというのは、本人の執念でなんとかなるはずだったのに、その日ジャンボは初めて本気で痩せて見えた。
「矢野」
「ジャンボ」
「お前」
「うん」
「ばかか」
「うん」
「めちゃくちゃ、ばかだ」
「うん」
ジャンボはそれ以上、しばらく何も言わなかった。
言わないあいだ、ジャンボの中でいつものように何かが整理されていた。
整理されたあと、ジャンボはぽつりと言った。
「結果、聞くか?」
「……うん」
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ジャンボは一日ぶりに口を開いた。
「ハナ差で、勝った」
「ナミダフクザツ?」
「単勝、二十八倍」
「うん」
「払戻金は、二千八百万円」
「うん」
「神様の計算は、けっこう律儀だ」
「うん」
「で、矢野」
「うん」
「お前」
「うん」
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僕はベッドの上で、ふと自分の両手のことを思い出した。
両手で馬券を握った感触だった。
ターフのスタンドのいちばん端のベンチで、両手で馬券を握った、あの感触。
いま両手は、片方が美咲に握られていて、もう片方はベッドのシーツの上に置かれていた。
どちらの手にも、馬券はない。
しばらくシーツのしわを見ていた。
シーツのしわは、僕がここで長く眠っていたぶんだけ深くなっていた。
しわのいちばん深いところに、二千八百万円分の祈りがたまっていたような気がした。
「馬券」
僕は自分の、二年ぶりに近い声で言った。
「馬券、どこ」
(第14話へ続く)




